哲学カフェが5年目で60回をむかえて、
新しく独立して個人のレーベルで展開していくことにする。
そのお祝いに花束をいただいた。嬉しかった。
長く続いているからといって偉いわけでもないし、
蓄積や歴史みたいなものもあまり関心がなく、
一回一回をその都度やってきただけという感じだが、
飽き性の自分が継続して楽しんでやっているというのが重要で、
そこに内的な必然性や強度があり、また不断の更新があるから、
続けていられるのだと思う。毎回一からの感じが良い。
あとは他者との関わりということが大きい。
他者はべったりとしているときよりも、
哲学カフェのような間合いの中でこそ見出される。
コミュニケーションの重要性と厳しさとがこの本から伝わってくる。安易に対話という言葉が用いられる今日において、大変意味深いものである。そもそも他者と関わることとは、人間が生きていくうえで避けられないことであり、またごくありふれたことでもある。しかし他者と関わるということは、決して生易しいことではなく、大変な覚悟が必要である。人と人との間には必ず暴力の生まれる可能性があるからである。相手にコンタクトをとることは、自らを危険に晒すことであるともいえる。人はこの暴力性と攻撃誘発性とを自覚しなければなるまい。相手に語りかけることの真摯さと難しさが伝わってくる。主体が他者によって形成されるといった議論もまた、示唆に富んでいる。
確かに訳はよくない。拙い語学力で原書も読んでみたが、やはり困難であった。数ページ日本語にしてみたが、こなれない。そう意図された本なのだろう。しかし読んで欲しい。生きるとは他者とのかかわりの中で意味を成す(当たり前だね)と考えている私にとって、もっとも推したい本である。
部屋に花々の生きた香りが充満して、むせるような生気を感じる。
花は食べられるわけでもなく、道具のように役立つわけでもない。
生命だから期限もある。
けれどそれゆえ「思い」というものを純粋にこめることができる。
命そのものを贈っているとも言える。
中川幸夫の花と言葉。
気焔空間、耳と耳の間、冴冴、赫い葩、おさな、弥生、叫ぶ花、風信、燭、ほほえみ、落花に心あり、天のこのは、懶惰、奇襲、鬼気、誇り高く、ひとおと、知の嘆、たにごえ、暁へ、魔の山、決別、連繋の肖像、風の塔、泉、野槌、森へ、自華像、打水、蹲る、水を、無言の凝結体、死の島
中川幸夫は白菜を活けたことにより、家元と衝突し池坊を脱退。流派を去った。
そういえば、女の子の花屋になりたいという夢はどこにいったのだろう。
刺さった矢はまだ揺れているか?