対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

【開催報告】オン哲!6.19(オンライン哲学カフェ)

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鉄輪の石垣の間に生える野花がうつくしい

 

 

 

オン哲!(オンライン哲学カフェ)を開催しました。

今回のテーマは「声」。

形としてはっきりととらえることができないテーマだったので、

みなさんと少しづつ考えを断章のように寄せ集め合いながら、

行きつ戻りつ深掘りしていきました。

 

声に感情が乗ることについて、教員としての声のトーンへの配慮、

声に人格やバックボーンが表現されてしまうこと、抑揚の有無について、

ボーカルの人の声が聞きたくなかった時期、剣術における発声、

空間を震わせる種類の声(祝詞マントラ)、

カウンセリングのトレーニングで自分の声を録音して聴いたときの違和感、

自分の声が嫌いな女性、文章を声を想像して読む、

ラジオは思ったよりいろんなことができるなどなど、

うまくまとめることはできませんが、普段じっくりと考えないようなことを、

立ち止まって時間をとって考えてみました。

 

この哲学カフェの「声」について。

ここの対話の場は会社と違って、ゆっくりで沈黙も許されるという発言がありました。

理路整然とハキハキと発話するだけではなく、言葉になる前の思いや葛藤も

掬い上げられるといいなと、そんな余白のある対話になるよう場作りに努めています。

 

 

ご参加ありがとうざいました。

また来月も語りたくなるテーマで対話をしたいと思います。

 

 

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オンラインのようす

 

 

 

 

 

【開催案内】オン哲!6.19(オンライン哲学カフェ)

 

 

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オンラインでの哲学対話の案内です。

今回は「声」についてみなさんと問い考えてみたいです。

 

 

◆「オン哲!6.19(オンライン哲学カフェ) 」  

今回のテーマは「声」です。コロナの影響でオンラインが増えて他者の声を耳元で聞く機会が増えたり、動画サイトなどでも声が前面に出て何かを伝える場面が増えたように思います。僕個人はテレビよりラジオが好きで、声として発せられた言葉は空中で消えるのに、それゆえにか強い印象を香りのように残していきます。また声フェチの方もいるように、声質そのものに魅せられることがあります。僕自身哲学カフェを長く続けてきて、対話が意味内容以上に、参加者の音声、響によって展開が導かれる場面が多々ありました。声、その質感や響き、肉声についてみなさんと問い考えてみたいです。


○テーマ:「声って、なんだろうか」
○日 時:6月19日(土)20:00-21:45
○方 法:オンラインZoomを使用します。
ファシリテーター:シミズ
○参加費:300円*paypayかamazonギフト券でお支払いください。
○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:参加希望者はホームページからお申込みください。
 
 
○前回の開催報告です↓

【開催報告】悩める教師のためのオンライン対話 6.12

 

 

 

 

学校の中に目的がないことを認める場所を作ることは、とても大切なことではないかと思っている。

 

『哲学対話と教育』「そういえば、結局のところ、対話するってどんなことだろう?」中川雅道(大阪大学出版会)

 

 

 

 

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悩める教師のためのオンライン対話を開催しました。

今回は「〇〇を学校教育にとりいれるべき」というテーマで、

参加者のみなさんが考える〇〇を寄せ合って、意見交換をしました。

 

 

みなさんが学校にとりいれたいこと

 

・哲学および哲学対話

・命を守ること(いじめ対策、ウサギ小屋の撤廃など)

・自由時間(好きなことをしていい授業)

 

そもそも大人同士が対話できていないに始まり、

学校って何だ、幸せってなんだと根本を問うことの重要性を改めて痛感。

また対話によって、全員が無理に仲良くするのではなく、

合わない人とは適切な距離をとることを学ぶこと。

自分の将来のことを考える時間、評価しない時間をもつこと。

いじめの傍観者も加害者であるのか問うこと。

保護者の意識、先生の意識。

 

いろいろ話しながら見えてきたのは、

結局のところ、いい学校に入っていい会社に入れば幸せという

大きな物語というか信仰があって、そこが変わらないと学校も変わらないだろう

ということ。

 

しかしながら、学校に対話を導入することを困難さ。

たとえばフラットに先生と生徒が校則について対話できるのか。

先生が答え持っていて、それを生徒が取りに行くという図式を変えられるのか。

むしろ対話がもつ危険性、困難性、疑うことの力、問うことの力こそが、

学校を変えていく力を持つと思います。

先生たちがもっている力を対話の力に受け渡すことができるのか、、

 

 

 

それは、制度的空間としての学校のなかに自由な空間をつくるという矛盾、いわば学校の「内」に学校の「外」をつくるという矛盾を犯すことになるかもしれない。だが、森田伸子がデリダを援用しつつ言うように、それこそ哲学教育が引き受けなければならないアンティノミー(二律背反)なのではないだろうか。そして、そのアンティノミーを引き受けて学校の内に自由な対話的・哲学的探究の空間をつくることによって、逆に学校を変えていく道が開かれるだろう。(中略)こうして哲学対話を推進していく先には、学校の「内」と「外」とが相対的に無意味となる社会が待っているかもしれない。

 

『哲学対話と教育』「それでも哲学対話を教育に生かす」寺田俊郎(大阪大学出版会)

 

 

 

 

 

ご参加ありがとうございました。

毎回有意義な時間だなとしみじみ感じます。

学校現場でも学校の外でも現状をなんとかしたいと思う人たちの対話が増えるよう

続けていきます。

 

 

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【開催報告】第五回 本読みに与ふる時間 6.13

 

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本読みに与ふる時間を開催しました。

梅雨の朝のひととき、短い時間ですが読書する時間を共有しました。

ご参加ありがとうございました。

 

 

 

 

今回みなさんの読まれた本です。

 

『哲学カウンセリング 理論と実践』ピーター・B.ラービ(法政大学出版局

 

『彼女たちの場合は』江國香織集英社

 

『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究國分功一郎・熊谷晋一郎(新曜社

 

華氏451度(新訳版)』レイ・ブラッドベリ伊藤典夫訳(早川書房

 

『ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチのすべて』木下康仁(弘文堂)

 

 

 グラウンデッド・セオリーなる概念を初めて知りました。勉強になります。

 

 

 

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オンラインの様子

 

 

 

 

腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)

 

 

 

 

花があちこちに咲いて草が生い茂っている季節は、猫にとって世界はどんな匂いの集合体になっているのだろうか。

 

明け方の猫』保坂和志

 

 

 

 

 

 

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一週間

 

 

月曜日

哲学カウンセリング、哲学相談について調べる。 

積ん読のままになっているピーター・B .ラービ『哲学カウンセリング 理論と実践』を読み始める          。(猫がスペース・キーを押した)ラービは世界各国でバラバラに実践されている哲学カウンセリングを検証し、批判を加え、新たなモデルをこの本で示そうとしている。私は、創始者ゲルト・アッヘンバッハ の「哲学カウンセリングは明確な方法といえるようなものを持たないし、持つべきでもない」という主張に魅かれるがそれでは全体的な質の向上には繋がらないのだろう。

 

 

火曜日

フレデリック・ワイズマン監督「エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館」をDVDで。ワイズマンの「何もしない」手法がNYPLの題材にとても効いている。

 

深刻化するホームレスの利用者に関する会議のなかで、ある人が規則を決めて来館を一時的に禁止するのはどうかと提案したのに対し、館長がホームレス政策に図書館がどこまで踏み込むべきか、規則を定めるのも大事だが、最終的に変えるべきなのはこの街の(排除の)文化で、助けるべきホームレスもいるという言葉を返していたのにはいたく感動させられた。

 

i am in the public eye(公共の目の中に)

標語の実践。すばらしい。

 

ちなみにニューヨーク公共図書館は半分は民間で寄附等で運営しているというのも驚かされる。アメリカという国は成熟しているところとそうでないところが両極端で、その両極端の力学のなか善きものと悪しきものが引っ張り合い、最終的には理性の行使によって善き社会の建設が達成され維持されていくみたいな弁証法が見えるのが羨ましい。

 

 

YouTubeでポキポキ整体を見るのが癖になっている。

ASMRというのだろうか、見ているとこちらも凝りがほぐれてくるような気がする。

 

 

暑いなか走った。ふらふらになった。

 

 

水曜日

晴れが続く。洗濯物がすぐ乾く。

 

 

鉄輪で狭い路地をスピードをあげて走る車に引かれて死ぬ猫がいる。 

湯布院みたいに一部の道路を進入禁止にはできないか。

また私も車に乗るから潜在的な加害の側となるのか。

 

竹田駅のニャー駅長が車にはねられて事故死したとの報。

かなしい。かなしい。

 

 

 

  

騒々しい観光客らは、まだ来たことがなく、この沈黙した大いなる者と共に、あなたは独りでいることができた。その下に坐っていると、樹は天へ聳えるほど巨きく、時間も消えた。永い歳月によって沈黙の威厳を身につけ、老年の無関心に達していた。それはあなたの精神と同じように沈黙し、あなたの心と同じほど静まり、時間の重荷を負うことなく生きていた。あなたは、時間さえ触れたことのない慈悲と、傷、不幸というものを知らない無垢を感じていた。あなたはそこに坐り、かたわらを時間が通り過ぎた。それはけっして帰ってこないだろう。そこには不死があった。そこでは、まだ死が起こったことがないからだ。その巨大な樹と雲と大地以外には、なにものも存在していなかった。あなたはその樹のところに通い、共に坐った。毎日、毎日が祝福だった。そこから離れ去ったとき、あなたは初めてその祝福に気づいた。なにかをもっと求めて樹のところへ帰ることなどできなかった。そこには、もっとというものなど存在しなかった。

 

クリシュナムルティの日記』クリシュナムルティ

 

 

 

 

木曜日

前川恒雄『移動図書館』(夏葉社)を読む。

書き込められた言葉のすみずみにまで、情熱が高い志が溢れていて、

それは出版社の夏葉社そのものの思いでもあるのだろうし、

ほんとに素晴らしい書物を復刻してくださってありがとうと言いたい。 

 

 

台湾カステラをはじめて食す。ほのかな甘さで美味しい。

私は白砂糖に弱いので甘すぎるのを摂取するとふらふらになることがあるが、

台湾カステラは食べてもそんなことはない。

 

 

 

金曜日 

パラパラと小雨降る中走る。暑いよりはよい。

ニラを食べ過ぎて足下に過ぎる雑草がニラに見える。これ食えるんじゃないのか。

走るコースが途中人一人しか通れない道があって、

今日傘を差した主婦の人と擦れ違うときに体を横にして通り抜けようとしたところ、

向こうは傘を高く上げて私を通してくれたが、その瞬間顔が見えたら、

ランドセルをかけた小学生だった。

 

 

吉本隆明の特集番組をネットで見る。家にテレビがないので助かる。

高橋源一郎の声によって読まれる吉本の詩が、ほんとうに素晴らしい。

その叙情性に泣き出したくなる。 

 

 

 

異数の世界へおりてゆく

異数の世界へおりてゆく かれは名残り
おしげである
のこされた世界の少女と
ささいな生活の秘密をわかちあわなかつたこと
なお欲望のひとかけらが
ゆたかなパンの香りや 他人の
へりくだった敬礼
にかわるときの快感をしらなかつたことに

けれど
その世界と世界との袂れは
簡単だった くらい魂が焼けただれた
首都の瓦礫のうえで支配者にむかつて
いやいやをし
ぼろぼろな戦災少年が
すばやくかれの財布をかすめとつて逃げた
そのときかれの世界もかすめとられたのである
無関係にたてられたビルディングと
ビルディングのあいだ
をあみめのようにわたる風も たのしげな
群衆 そのなかのあかるい少女
も かれの
こころを掻き鳴らすことはできない
生きた肉体 ふりそそぐような愛撫
もかれの魂を決定することができない
生きる理由をなくしたとき
生き 死にちかく
死ぬ理由をもとめてえられない
かれのこころは
いちはやく異数の世界へおりていつたが
かれの肉体は 十年
派手な群衆のなかを歩いたのである

秘事にかこまれて胸を ながれる
のは なしとげられないかもしれない夢
飢えてうらうちのない情事
消されてゆく愛
かれは紙のうえに書かれるものを恥じてのち
未来へ出で立つ


吉本隆明詩集 思潮社

 

 

土曜日

ぐずついた天気が一日つづく。

別府市新図書館の基本計画書を読む。とても良くできている。

これを具体的にどう運用させるかはまた別の問題だとしても。

学年や学校を超えて、学校と家庭以外の居場所、探求学習やグループワークなどの

対話的、主体的で深い学びを推進すると書いてあるので、ここに何らか関わりたい。

 

 

夜にオンラインで悩める教師のための対話会を開く。

今回は「学校教育に○○をとりいれるべき」で対話をする。

局所にすぎないかもしれないが、この対話は続けていく。

対話が終わった後はいつも清々しい思いがする。

開催報告はまた別であげます。

 

 

日曜日

朝はオンラインで「本読みに与ふる時間」をひらく。

黙々と読書する。短いけど、それがゆえに濃密な時間。

いつも親子で参加していただいている遠いところのFさん。

今回は偶然母娘で同じ本を取り出して読んでいた!

母娘の結びつきは上下のないフラットで不思議なものがある。

 

終わってオンラインを切り替えて、遠く離れたところで主催する

哲学カフェAさんと自分の活動について話す。

遠くに住む人、志の近い方と話しをするのは楽しく熱い。

コロナの効用といえば、これだろう。

 

 

夕方、ホトトギスが絶え間なく啼いている。

それを聞いた同じく鉄輪在住のKさんがツイッターホトトギスについてツイートしていた。違う場所にいて、同じことを考えていたり、同じ場所にいて、違うことを考えていたり。

 

 

 

初咲き初鳴きは日記にあらわれやすいが,散りおわり鳴きおさめはあらわれにくく,おそらくはつぎのめぐりを待つことのおぼつかない者だけが見さだめ聞きとどけようとして息をつめている.

 

『累成体明寂』黒田夏子

 

 

 

 

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最近お気に入りの場所のようだ。本を踏破してゆくよ

 

【開催案内】本読みに与ふる時間 6.13

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こんにちは。主催者のシミズです。五回目の「本読みに与ふる時間」を開催します。



「本読みに与ふる時間」とは各自が日曜日の朝に好きな本を読む、その時間をオンラインで共有するというだけの企画です。参考までに前回の開催報告をリンクします。

 

kannawadokusho.hatenablog.jp

 

 

【企画の概要】
・各自が読まれる本は問いません。文芸書でもビジネス書でもお子さんと一緒に絵本を読んでもOKです。基本黙読でお願いします。
・9時開場で、読書時間はだいたい9時15分~35分の20分とします。
・参加費はかかりません。
・zoomを使用します。あらかじめアプリをダウンロードしておいてください。
ご自身がその日に読む本をzoomのチャット欄に書き込んでください。できれば選んだ理由も書き添えてくれると嬉しいです。
・参加者の方が自己紹介など特に話す必要はありません。僕が一方的にしゃべります。話すのが苦手な方歓迎です。
・マスクをしていても構いませんが、ビデオはオンにして顔出しでお願いします。
・基本ミュートにしてください。
・参加には事前の申し込みが必要ですが、ドタキャンはOKです。途中参加途中退出もOKです。
・参加希望者はこのメールに返信ください。開催日の前日に招待メールをお送りします。
・僕の都合で突然中止になるかもしれませんが、その際は事前に連絡いたします。

 


○企 画:第五回 本読みに与ふる時間
○日 時:6月13日(日)9:00-9:40
ファシリテーター:シミズ
○参加費:なし
○定 員:何名でも可(要事前申し込み。ドタキャンOK)
○備 考:参加申込者には前日に招待メールをお送りします。それにリンクしてあるzoomのURLをクリックして当日入室してください。お申込みは5/8土まででお願いします。  

 

お申し込みは以下ホームページからお願いします。

読書会 - 対話と人と読書(哲学カフェ大分)

 

 

夜の靴を探して

 

 

 

 

堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ。

ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』法政大学出版局

 

 

 

 

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一週間は一週間。

 

 

月曜日

五月が終わる。みなで訪れた国東の日が遠い昔のようだ。あのころに比べ、すでに日は鋭さを持ちはじめている。葉もそれに耐えうるように少しずつ濃い。

 

 

知らないおばちゃんに通りすがり、お久しぶりですねと声をかけられる。

たぶんどこかで会っているはず、だと思う。自信がない。けど声かけは嬉しい。

挨拶は愛の経済。

 

 

自分の活動を人に紹介するのに、かつて開催した哲学ツーリズム@釜ヶ崎の開催報告を

リンクして送る。改めて読み返すと非常に良くまとまっていて自画自賛

一連の記事はほんと多くの人に読んで欲しいわ。

 

kannawadokusho.hatenablog.jp

 

 

 

火曜日

梅雨が忘れられたような晴天が続く。気持ちいい。永遠を感じる。

 

ながらく枕難民だったため、意を決してニトリのプレミアムフィット枕を購入。

なかなかにプレミアムフィットしたのでよく眠れたような気がする。

しかしそもそも自分に合った完璧な枕というのは存在するのだろうか。

まず自分という形体が流動的なので枕もそれに合わせて流動的であるのか。

 

 

走った。調子に乗った。10km近く。足が痛い。

スポーツの存在意義と芸術の存在意義は同じなのだろうか。

 

 

水曜日

新しい方から読書会参加の申し込みがある。

勇気を出して申し込みをしていただいたようで嬉しい。こちらも元気をもらう。

人生はまず飛び込んでみないと分からないことが多い。

 

 

瞑想用座禅用に座る際に使うちょっと高めの座布団を購入したが、

1番にネコに使われた。

寝心地が良いようだ。舌をしまい忘れて寝ている。

 

 

 

木曜日

雨。そういえば梅雨だった。思い出したような雨。思い出しは激しい。

 

横光利一の『夜の靴』をながらく探していた。家でネットで。

ここ1ヶ月購入しようかどうかしばらく迷っていたところ、

本棚から飛び出すように横光利一全集が床に転がっており、

全集の目次を見ると『夜の靴』が収録されていた。(日本の全集は全集ではないので)

探していたものが思わぬ形で目の前に転がっているという体験をよくする。

 

 

ずっと中止になっていた大分の韓氏意拳の稽古が7月に再開されるようで、

早速申し込んだ、

 

 

意拳は実際の組討の中で、往々にして「只一下(ただ一撃)」で戦いを終える。この意拳の奇異な現象を、多くの人は「奪力一摶(すべての力を振り絞って殴りかかる)」、「孤注一擲(すべて運に任せて一息に勝負に出る)」などと理解し、甚だしきに至っては「瘋狗精神(狂犬精神)」などと言う者までいる。実に、無知の極みである。ただ意拳がこのような現象を生じるのは、意拳がすでに判断式の偶然性の結果から、完備式の必然性の結果に入っているためである。

 

『韓氏意拳』「意拳の価値」韓競辰

 

 

 

 

 

金曜日

下から私を呼ぶ者がいる。

インターホンが壊れているので、私に用がある人は2階にいる私を下から

おらばないといけない。

フリースペースとなった旧宅を貸して下さいという申し出だった。

使う計画が合ったので丁重に断った。

とてもとてもここを使いたい意思と情熱を示されていたので、

断ったときに縋られるのではないのかと危惧したが、

あっさり気持ち良く了解してくれた。こういう人なら貸してもいいと思った。

なにかが分かることは、あるいは真理は遅れてやってくる。

ここは立地がいいので住むにも商売をするにも絶好の場所だろう。

不動産も勉強しなきゃだ。

 

 

「藤ヶ谷清掃センター」と打つところ、「富士型に戦争センター」と変換される。

ここに片付けた木屑を捨てに行った。

戦争センターは山間の中にあり、車の窓を開けると緑の濃い匂いに満たされる。

湿り気を含んだ森の匂いを嗅いだのはいつ以来だろう。

遠くで自衛隊演習の大砲を撃つ音が断続的に聞こえる。

桜井晴也さんの『あたたかい砲台のなかで』という小説のタイトルを思い出す。

まだ読んだことがないが、さいこうの小説だろうと思われる。

 

 

 

 

土曜日

黒澤明「天国と地獄」をDVDで鑑賞。

学生時代に山の様に映画を見たが黒澤明はどうも好きになれなくて、

やっぱり今見ても好きになれない。

脚本や構成、主題や役者などすべてが魅力に満ちたものなのだが、のめり込めない。

それは作り手が「作品」を完全に制御できるものと信じ、

そして作者の思惑それ以上のものではない閉じたものとして存在させ、

観客のエモーションまで設計されているその手つきがわかり醒めてしまうのだった。

つまり余白が全くない。閉じられたヒューマニズムトートロジー?)。

黒澤は完璧主義だと言うが、その力の向け方が常に閉じられた方に向かっている。

なにかそうしないと不安であるかのように、隅々までいや隅々にだけ意識がある。

たとえばアンゲロプロスの完璧主義は、歴史の暴力性、残酷性を呼び込むものとして

機能している。閉じられたヒューマニズムはない。

もしくは完璧主義とは程遠い大島渚の作品の開かれ具合のヤバさなど。

 

 

別府で開催される「温泉ソムリエ認定セミナー」の受講申し込みをする。

民間資格で3万円近い受講料は高額だとは思うが、温泉地に住んでいることもあり、

体系づけて温泉について学びたいと常々思っていたのでフンパツする。

分厚いテキストがあるので納得とする。

 

 

オンラインで対話勉強会に参加する。

テーマは「日本では意見の否定がどうして人格の否定につながりがちなのか」

メタに哲学対話、哲学カフェをみなで考えることはとても勉強になる。

ファシリテーターだけでなく、参加者全員がケアの意識をもつことの重要性。

 

ただいまだ世間では「哲学」は怪しいとか難しいとか訳の分からないものとして認識されている。

 

 

走った。

走っているときに思い出し笑いを何度もしてしまい気持ちの悪い人になっていた。

 

 

 

日曜日

 

「多文化に生きるこどもネットワーク大分」主催のオンラインスピーチの視聴。外国籍の子どもが日本に来てさらされるストレスを痛感。それをスピーチという言葉にする機会を与えることで、解放させ自尊心を回復させる機会をもつ。グランプリを決めないこと、全ての参加した子どもたちに、それぞれの〇〇賞をつくり賞状を送ったことなど、その尽力たるや頭が下がる。大人たちが知恵と情熱を使って手を差し伸べたことを子どもたちは忘れないだろう。 子ども達の表に現れにくい意を汲み取ったり、良いところをフォーカスしたりすることを「キャッチする」という言葉で表現されていてファシリテーターとしても勉強になった。

 

 

 

 

 

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通るたびに気になるマンション。

こういうのを文化と呼びたい。