対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

青い卵、青い船。

 

 

 

 

なにはともあれ日記者は日記することで生きのびなければならない.
 
『累成体明寂』黒田夏子
 

 

 

 

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鉄輪温泉渋ノ湯の裏にある、太陽を表した碑 

 

 

 

一週間

 

月曜日

涼しい。雨曇り。

 

ブラジルの熱帯雨林に住むヤノマミ族(人間という意味)には雨の言葉が五十を超えるという。アルマジロの雨、短い雨、紅い花の雨、川を叩く雨、木の匂いの雨、命の雨(霧雨)、木の雨(小雨)、光の雨(豪雨)…。それに比べて時間を表す言葉はない。

 

日本語だとどうだろう。緑雨、白雨、甘雨、月時雨…アマゾンの即物的な表現とは違い情緒があるなあ。

 

 

自分はピンクというか桜色を好み、持ち物や衣服やインテリアなどその色のものがけっこうある。小1くらいの頃、デパートにあったピンク色のリュックが気に入り、とても欲しいと思ったが、これはなんとなく男の自分が使ってはいけないと思い、自制して諦めた記憶がある。ジェンダーというのものは小さい頃から刷り込まれ、内面化されているんだなとその手強さを思う。

 

 

火曜日

夏を思わせる陽射し。

 

鉄輪朝読書ノ会の案内をメール送信する。来月は『朗読者』シュリンクを読む。どんな読書会になるのだろう。参加者の感想が今から楽しみ。

 

 

哲学対話や読書会での対話は時間の制限があるので、どんな状況であろうとも、時間が来れば終わる。それはいつも突然な感じがある。それはとても大きな特徴だ。 でも終わってからも続く内省や対話(inner dialogue)はある。あのひとのあの発言はこうだったんじゃないのかとか、ああいう風に言えば良かったなとか、言い足りなかったこと、別の本を読んでいて別の角度から気づきが促されることもある。だから正確には対話に終わりはないと思うし、そのように開いていたいとも思う。なので対話が終わった後も語りたいことや気づきがあれば、いつでもメールを送っていただければ嬉しい。

 

 

 

水曜日

薄曇り。昼から晴れて、ぐんぐん暑くなった。

 

忘れられない色がある。東京に住んでいた頃広告デザインの仕事をしていて、ある喫茶店を取材したときに、そこはアローカナという珍しい青色をした卵をサンドイッチに使っていて、それを見せてもらった。とても神秘的な青色で人をうっとりとさせるものがあった。同時期にテオ・アンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」という映画を見たときに、冒頭青い舟が画面を横切るという力業のシーンがあって、その青色を見たときにアローカナの卵を思い出したものだった。いや、逆だ。アローカナの卵を見たときに、青い船を思い出したのだ。

 

今日は改装中のウカリユハウスの壁・床の業者さんと打合せをした。壁の色は薄いブルーグレーを選んだ。記憶のなかの青い卵と青い船を思い出しながら。どんな仕上がりになるのだろうか楽しみ。

 

 

夜は涼しい。窓を開けると鈴虫の鳴き声が聞こえる。しんみりする。

 

 

六月も終わった。

 

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Ulysses' Gaze 

 

 

 

木曜日

七月のはじまり。下半期か。

 

古楽器によるクラシックを聴きに大分の町へ出かける。大分の人は今でもそうなのか、中心部に出かけることを「大分に行く」という。大分はどこでも大分のはずだが、大分の中の大分があるのだった。

 

生演奏を聴くのは全身的な体験で身体もひとつの楽器であるのか、その響きが空間とともに共振する心地よさがある。となりのおじさんは体でリズムをとっていた。音楽を聴いて癒やされる場合、それは接続なのか断絶なのか。わからない。両方有るような気がする。

 

終わった後はすっかり夜になっていた。iichiko総合文化センターの間接照明の薄暗いライティングはとても雰囲気のあるのもので、演奏会の余韻と相俟って気持ちの良い散会の道行きを示していた。

 

 

 

海のざわめき。天と地とをへだてる曲線。草むらをゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてが我々のうちにさまざまな印象をしずみこませる。そして、突然、こちらの意向とはおよそなんの関わりもなしに、それらの記憶のひとつが我々の外にひろがり、音楽言語で自分を表現する。

 

 

夜の神秘な詩情や、月の光の愛撫をうけた木の葉がいずれからともなく立てるあの千々のささやきのなかに、生きている証しをそっとうかがわせる現とも見えぬ風景、疑えはしないが幻影のような世界は、音楽だけが意のままに喚起する力を持っている。

 

 

クロード・ドビュッシー音楽論集

 

 

 

 

金曜日

 

いつもと違うコースを走る。鉄輪出、亀川経由、別府大学、鉄輪着。途中方向喪失しながらもいいコースを発見した。1時間くらいで丁度良い。すさまじく汗をかく。鉄輪からくだると湿度温度がぐっと上がるような気がする。蒸し風呂のような環境も良い。

 

 

走った後はいつもすじ湯温泉に入っている。すじ湯温泉は石鹸・シャンプーの類いは使用禁止なのだが、今日入るとおっちゃんが石鹸を使っていた。自分の存在に気づくと慌てて泡を流していた。聖域を汚されたような、とても残念な気持ちになった。「禁止」という状況を楽しむこと。温泉という公共の場における、「私」をどこにおくのか。

 

 

「工芸青花」の川瀬敏郎氏のことば

たてはなは「公」であり、なげいれは「私」であり、茶の湯も「私」。茶の湯となげいれを「私」たらしめているのは(公私はハレとケにいいかえられるかもしれません)、「侘び」ではないか、……

 

 

自分の住んでいる住所字名の「ウカリユ」は漢字にすると「兎狩(の)湯」だということを発見した。なぜ兎を狩るのか、そもそもの由来を知りたい。湯が熱すぎて兎が入るとのびるということだったら面白い。

 

 

 

土曜日

対話勉強会。一ヶ月経つのが早い。現在多くの哲学カフェで使われているらしい梶谷ルールの梶谷さんがフェイスブックに寄せた「何を言ってもいい」についての注意喚起の文章について、みなで話し合う。対話内で「問題」や「ハレーション」が起こった時に、それを見逃してしまうことについて、対話はファシリテーターだけでなく、参加者みんなでつくっていくという意識について、対話における強者と弱者について、同質な者同士の集まりは哲学対話であるのかないのか、対話の場においても外の社会と同じ扱いを受けた、聴くこと、考えること、変わること、予防的すぎると哲学対話のテーマから逸れていくのではないのか、どういう工夫がいるのか、見逃す側の論理、ハレモノに触るような扱いはケアと言えるのか行き過ぎではないのか、自分が優位に立っていることがわかっていないこと、自分の立場を可視化するには、ケアの有り様をいろいろ考える、哲学対話には何か「不足」しているものがあるんじゃないのか等々等々等々

 

 

 

少し長いけど。梶谷さんの文章で気に入ったところを引用する。

 

 

私がルールとして「何を言ってもいい」というのを掲げているのは、上のような趣旨を明確に示すためです。またそのさい念頭に置いているのは、私たちが普段いろんなことを気にして思ったことが言えずにいる現状です。私たちは学校でも会社でも、家庭でも友人関係でも、こんなことを言ったら笑われないか、馬鹿にされるのではないか、怒られるのではないか、恥をかくのではないか、変な人だと思われないか、自分の言うことなどつまらないことではないかと思って、自分の考えを言わないようにしています。また私たちはその裏返しで、人に褒めてもられたり評価されるようなことを言うように努めたりします。いずれの場合も、結局は自分が考えていることを言うのではなく、他人の考えや世の常識のようなものに合わせて発言しているだけです。「何を言ってもいい」というルールは、そういうことを気にしなくていいということです。だからこそ「他の人に対して否定的な態度を取らない」というルールがセットになっているのです。

 

このように自分の考えを率直に言えないのは、通常は社会的に弱い立場の人たちです。それは、大人に対する子ども、男性に対する女性、先生に対する生徒、上司に対する部下、学力や学歴が高い人に対してより低い人、知識のある人に対する知識の少ない人、専門家に対する一般の人、健康な人に対する病気や障害を抱えた人などです。こうした人が気兼ねなく話せてこそ、社会の通念や強者の論理を反省し、覆すことができるのであって、それこそが哲学的な態度だと言えます。

また、こうした人たちが率直に話せる場は、実際には社会的に立場の強い人たちにとっても安心して話せる場になります。なぜならそうした人たちは、社会の支配的な価値観を強く内面化して縛られていて、「高く評価されることを言わないといけない」「間違ってはいけない」「優位に立たないといけない」などのプレッシャーを受けていることが多いからです。したがって、誰にも馬鹿にされたり怒られたり恥をかいたりしない場であれば、彼らも相手をことさらに論破したり自分の優位を示すために攻撃的になることなく、率直に話をしていろんな立場の人たちと話すことができます。

 

梶谷真司 Facebookより

 

 

夜はオンラインでシネマ哲学カフェ。今回は是枝裕和監督の「万引き家族」を題材に”人が人を大事にする、人に大事にされるってなんだろうか”について対話する。詳細は開催報告として別に書くが、この映画のもつ「あたたかさ」や「優しさ」「ゆるし」について語れたのは良かった。

 

 

 

日曜日

韓氏意拳の初級稽古会へ行く。5年ぶりくらいだろうか。しばらく来ないうちに鶴崎の公民館がだいぶきれいに改修されていた。昔のぼろい方が雰囲気があって好きだったけど。

 

守師の指導を受ける。韓氏意拳の稽古は始めに言葉がある。というかたくさんの言葉とともに型がある。絶えず流れゆくもののただなかにそれは現れる、から、それに追いつくために、「教える」ということは精妙な言葉を必要とする。武術と武学がともにあるような、私は15年前に尹雄大氏の書いた『FLOW 韓氏意拳の哲学』(冬弓舎)を読んで、この武学を学びたいと思っていたところ、実家の近くで学べることがわかって驚いたものだった。

 

 

 

韓氏意拳は「韓氏意拳とは何か?」という問いの中にしか見出せないもので、外形を紹介して、その上辺を理解し、真似たとしても、それは韓氏意拳ではないし、大事なことは、そういう言い切りや具体性の中にはない。

 

そもそも韓氏意拳が伝えようとしているのは、必勝不敗の技法ではなく、「武学」という哲学であって、だから具体性のある技法はあっても認識が伴わないと使えないし、技法は韓氏意拳が考えている哲学ーーー世界をどのように捉えるかーーーを表す方便にしぎない。

 

『FLOW 韓氏意拳の哲学』尹雄大

 

 

15年ぶりくらいに読み直して、私の対話における基本的な態度、また小説の読み方、世界のあり方が、韓氏意拳の思想の読み方から随分影響を受けていることに気付いたし、稽古のなかでもそれをひしひしと感じて、源流を発見したような嬉しさがあった。

 

韓氏意拳は難しい。その操法は、いまの近代化された体の使い方とは違うから。この「癖」にまず自分が師の指摘を受けながら気付いて修正していかなければならない。簡単ではない。

 

2時間半の稽古は、久しぶりだったこともあり、また韓氏意拳が進化していることもあり、ついていけないような自分の体の重さを感じた。すこし悔しい思いを抱えつつ、また自分の身体と向き合おうと、この武学を言葉とともに深めていきたいと決意したのだった。それは対話の場にも直結するだろうとも。

 

 

稽古後、守師の「才能に頼ると死ぬ」という言葉が、矢継ぎ早に出されたたくさんの言葉のなかで、それだけが強い実感を伴って私のなかに木霊した。

 

 

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【開催案内】オン哲!7.10(オンライン哲学カフェ)

 

 

 

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こんにちは。主催者のシミズです。七月のオンライン哲学カフェの案内です。

 

今回のテーマは「諦めることとは」です。ある禅僧の言葉を紹介します。”「諦める」の語源は「明らむ=明らかにする」。 仏教では、「物事の理(ことわり)をはっきりした上で、その理に合わないことを捨てる」という意味があります。 つまりは、いらないものを捨てるだけの話です。”
 
諦めや断念すること。日本のオリンピックや先の戦争、また個人の人生においても諦め下手というのか、諦めることができずに遮二無二進んだり、撤退できずに踏みとどまっていることが生きづらさにもつながっているのではと思うことがあります。
 
「諦める」ということをみなさんとカジュアルに語り、考えていければと思います。
 

○テーマ:「諦めることとは」
○日 時:7月10日(土)20:00-21:45
○方 法:Zoomを使用します。
ファシリテーター:シミズ
○参加費:300円*paypayかamazonギフト券でお支払いください。
○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:開催前日までにお申込みください。
○前回の開催報告です→ https://kannawadokusho.hatenablog.jp/entry/2021/06/20/205556
 
お申し込みは以下ホームページからお願いします。
 

【開催案内】第六十二回 別府鉄輪朝読書ノ会 7.25

 

 

 

「あなただったら何をしましたか?」

 

『朗読者』ベルンハルト・シュリンク

  

 

 

 

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七月の別府鉄輪朝読書ノ会のご案内です。

 

 

七月は現代ドイツ文学で世界的ベストセラーにもなったベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮文庫を読んでいきます。 読むのは難しくない、でも読んでからが難しい。そんな作品です。江國香織絶賛!号泣する準備をしてください!
 


内容(amazonより)
15歳のぼくは、母親といってもおかしくないほど年上の女性と恋に落ちた。「なにか朗読してよ、坊や!」――ハンナは、なぜかいつも本を朗読して聞かせて欲しいと求める。人知れず逢瀬を重ねる二人。だが、ハンナは突然失踪してしまう。彼女の隠していた秘密とは何か。二人の愛に、終わったはずの戦争が影を落していた。現代ドイツ文学の旗手による、世界中を感動させた大ベストセラー。  
 
 
○課題図書:『朗読者』ベルンハルト・シュリンク新潮文庫
○日 時:7月25日(日)10:00-12:00
○場 所:別府市鉄輪ここちカフェむすびの
ファシリテーター:シミズ
○参加費:¥1,200円(運営費、むすびのさん特製の軽食、ドリンク代含む)
○定 員:10名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:課題本を事前に読んで参加してください。
      7/22木までにお申込みください。

 

 

お申し込みは、ホームページからお願いします。

kannawanoasa.jimdofree.com

 

 

One More Light

 

 

 

 

基本的に受け身を取れるのは、受け身を取れるように投げているからですよね。

 

光岡英稔

 

 

 

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一週間

 

 

月曜日

夏至の日。晴れた夏至の日というのはあまり記憶にない。せっかくならと太陽を浴びたくて、無意味にあてもなく近場をドライブする。窓から入ってくる風がすばらしい。

 

 

新しい活動拠点となるハウスの床と壁を選ぶためにカタログを業者さんから預かるものの、なかなか決めきれないものがある。ハウスの名前をなににしようか。登記簿によれば、ここの正式な地名は片仮名でウカリユというもの(さすが別府鉄輪!)、ウカリユハウスと仮に名付けておくか。ウカリユの家とかCASA ukariyuでもいいかもしれん。でも学舎のイメージを付与するならSCHOLE Ukariyuとか。スコーレは古代ギリシャ語。元々は暇や余暇を意味する。でもたんなる余暇ではなく、精神活動や自己充実にあてることのできる積極的な意味をもった時間、また個人が自由または主体的に使うことを許された時間のことである。いまの公教育の学校となんとかけ離れたことか。

 

 

 

猿や熊が街に出没する。

猿や熊を追い返す。熊を殺す。

もともと猿や熊が住む場所にわたしたちは住ませてもらっていると考えよ。

 

 

 

火曜日

朝から解体の音がする。鉄輪の象徴のひとつでもあったヤングセンターが解体中だ。壊す音というのは、意外に多彩で音楽的でつい聴いてしまいがち。破壊せよ、とアイラーは言った。

 

 

梅崎春生の小説を再読する。微細な描写のひとつひとつが精神に直結し、世界を構成する。わたしの心象風景に近しく感じる。

 

 

代替肉について、ラジオで流れる。代替肉はスーパーで売っているのを見たことはないが、主流になるといいなと思った。人工肉というのはネーミングの問題かちょっとと思うが、ソイミートというのは健康的で良いではないか。

 

 

自分には悲観的なところもあるが、最終的には(根拠のない)「なんとかなる」という感覚というのか人生観みたいなものがベースにはあって、これはとてつもなく大きな特性で、それがどうやって培われたかはわからないが、きっとなんとかなるのだ、すべて。

 

 

水曜日

気持ちの良い朝がつづく。

ボーナスタイムか。

 

 

 

アナキズムとは、ヒエラルキーと国家に対して常に抵抗し、人に余裕を与え、そして助け合おうとする不断の努力が験されるものなのだ。

 

『もう革命しかないもんね』森元斎

 

 

 

自分が読書会や哲学対話で目指しているのは最終的にはアナキズムかもしれんと思いながら読む。

 

 

 

アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想だ

 

『方法としてのアナキズム鶴見俊輔 

 

 

 

 

 

 

私は別種の学校において自分の教育を成し遂げたいのです。

 

ヘンリー・D・ソロー「原則なき生活」

 

 

 

ソローのように生きたい。ソローになりたい。そろっと。

 

 

木曜日

映画を見るために街へ。

 

永楽庵のお蕎麦は美味しかった。つねに店主が入れ替わり立ち替わり来るお客さんと矢継ぎ早にしかも料理をしながら話していて、それも上っ面だけの会話ではなく、なんというか一つの技芸に達していた。

 

 

シネマ5bisで「ファーザー」を見る。認知症の主人公を主観とした映画。認知症の世界は孤立しているので、周囲の人がその「世界」に付き合うことの重要さが痛いほど分かった。しかし「映画」ならばもっとその「世界」への肯定があってもいいはず。啓蒙映画に堕しているとも思った。でも丁寧な造りで好感は持てた。

 

 

一緒に見てくれた方とねこのいる喫茶店で映画の感想など語り合う。ねこがわたしの膝に何度ものる。「川瀬敏郎 一日一花」をお貸しする。「一日一花」は震災から一年366日毎日花を投げ入れたてまつった記録の写真集である。一頁一日、短い著者の言葉も添えられ、どの頁も静謐でありながら力強い。手渡された彼女は頁をぱらぱらと捲り、ある日付のところで手が止まってしばらくその花を眺めていた。その日付は偶然にも私の誕生日だった。彼女は私に誕生日はいつですかと尋ねた。私はこの日ですよと、その開いた頁を指さした。彼女は驚いて何度もその日付を私に確認した。彼女の誕生日も同じ日だったのだ。誕生日が同じということも稀有なことだが、それが「一日一花」を媒介にして見出されたというのがとても良かった。その瞬間、世界の秘蹟に触れたように。

 

 

 

 

 東日本大震災からひと月後、テレビのニュースを見ていたときでした。画面は剥きだしの大地に草が萌え、花が咲く、被災地の遅い春を映していましたが、私の心をとらえたのは、花をながめる人々の無心の笑顔でした。

 じつは震災のあと、私は生れてはじめて花を手にすることができずにいたのですが、その笑顔にふれて、むしょうに花がいけたくなり、気づけば「一日一花」をはじめていました。生者死者にかかわらず、毎日だれかのために、この国の「たましひの記憶」である草木花をたてまつり、届けたいと願って。

 それらの花をどのように伝えてゆけばよいか思案していたとき、「インターネットで配信してみませんか」と新潮社の菅野さんから提案を受けました。当初は戸惑いましたが、最適のようにも思えてきて、新潮社「とんぼの本」のホームページでの配信が決りました。

 私は「一日一花」を、花による曼荼羅と思い描いていました。あらゆる花を手向けたいとの心願がありました。とうてい私ひとりの手には負えません。気心が知れ、花をよく知る川島南智子さんと、花フジの藤井一男さん壽子さんが心強い味方でした。なかでも川島さんと壽子さんは、まさに身を賭して山野を走りまわり、花を届けてくれました。二人をつうじて多くのいのちと出逢いました。また森田美保子さんも、庭の花を惜しげなく切ってくださったうえ、花の名も御教示いただきました。ほかにも何人もの方が「一日一花」を知って花を届けてくださり、何よりの励みとなりました。撮影場所を提供していただいた木村宗慎さん、カメラマンの青木登さん、『今様花伝書』以来編集に携わってもらっている菅野康晴さんにはひとかたならぬお世話になりました。

 多くの方々の力添えがあって、三六六日、花と向きあうことができました。終えてみると「花を賜った」という気持でいっぱいです。心より御礼申上げます。



『一日一花 川瀬敏郎』 「あとがき」より 

 

 

 

金曜日

気持ちの良い朝がつづく。今日は解体の音もない。

台風が近づいているのか。

日曜日の読書会は雨だな。

 

 

ネットの記事などの「ここからは有料です」というのがどうにも苦手だ。

 

 

走る。一週間ぶりのせいか、ちと重い。でも、晴れがましい。

 

 

カントの「理性の公的使用」という概念が好きすぎる。たとえばケン・ローチ監督の「わたしはダニエル・ブレイク」という映画を例に説明してみる。心臓に持病があり医者から働くなと言われているダニエルという爺さんがいる。ダニエルは働けない間の失業給付金をもらうために福祉事務所に行く。しかし福祉事務所に勤める役人たちは非効率で型通りな対応しかしない。ダニエルには給付金の許可がなかなか下りずに困窮してしまう。ついに怒ったダニエルは告発のため役所の壁に抗議の落書きをする。役人たちの型通りの仕事は一見すると「理性の公的使用」に思えるが、カントはこれを「理性の私的使用」だと断ずる。あくまで自分の属する組織のためだけに使っているからだ。これに対してダニエルの義憤に駆られた行動や組織の規則に抗った役人の行動は「理性の公的使用」となる。公と私をこのように捉えたし。

 

 

 

土曜日

しずかな朝。曇り。太陽はない。

 

昨日の月は赤かった。「赫い」という字を当てたくなる。

 

鉄輪もずいぶん人手が増えたように思う。

 

長い昼寝をねこと一緒にした。

 

 

 

夜はオンラインで「もう革命しかないもんね」の刊行記念対談を視聴する。著者の森元斎さんと哲学者の中村昇さんのアナキズムをめぐっての対談。ホワイトヘッドやグレーバーの話のなかに、「ベースライン・コミュニズム」、「相互扶助」といった言葉が出てくる。はじめアナキズムの概念がわかったようでわからなかったが、ブッダってアナキストっぽいという言葉が出た時に腑に落ちた感があった。

 

 

 

 

日曜日

予報は覆り、雨のない朝となった。今日は月に一度の別府鉄輪朝読書ノ会の日だった。

参加者の方々と韓国文学『菜食主義者』を読んだ。

 

 

以前哲学カフェで「癒し」をテーマにして対話したときに、Sさんは癒しは断絶のなかにあると仰っていて、それが自分でもわかったようでもあり、わからないようでもあったのだが、この作品のあるクライマックスを事例に、そのことをSさんはもう一度反芻してこの読書会でも語り、わたしにも腑に落ちるものがあった。本来わたしの開催する読書会や哲学カフェ、シネマカフェ、ツーリズムなどは別々に存在するもので、それらを横断して語ることはないけど、ほんとうはどこかで繋がっているし、それを見出してくれるのはとても嬉しい。こっちの鈴の紐を引けば、遠くに下がっている鈴が鳴る、みたいな響があると思うので。シンクロやセレンディピティの生まれやすい余白が十分にとってあるつもり。なのでたくさん参加してください!

 

初参加者の方もはじめは敷居が高いと思い参加を躊躇していたが思い切って参加してみて楽しかったとメールをいただいた。読書会を続けて良かったと思うひととき。日曜日の朝と夜だった。

 

 

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寝しな

 

 

 

 

 

 

 

【開催報告】別府鉄輪朝読書ノ会 6.27『菜食主義者』ハン・ガン

 

 

 

 

お姉さん、…… 世の中の木がすべて兄弟みたい。

 

菜食主義者』ハン・ガン(クオン)

 

 

 

 

 

六月の別府鉄輪朝読書ノ会を開催しました。

今回は初の韓国文学『菜食主義者』ハン・ガンをとりあげ、

みなさんと感想を交わしていきました。

 

登場人物への共感の度合いが憑依するかの如くに強い方もいれば、

部分的にわかるという方もいて、ホラーのようでもサスペンスのようでもあり、

生きていく上で避けられない暴力というものを文学として昇華させたとも読めました。

 

韓国出身の方の参加者が、韓国におけるベトナム戦争の位置づけや家父長制について

リアルな話をしてくださり、作品理解の助けになりました。

 

われわれは社会的な動物であり、社会が持つ夢も恨みも背負い込むことになる。

それを表面的にやり過ごしても責めることはできないが、

それは「生きた」とはいえないかもしれない。

社会からの因果を断ち切ることは狂気をもってしかできないかもしれないが、

その瞬間に究極の癒しへと放たれる一本道があるという感想も。

 

抑圧された女性性への解放とも、世界に内在する暴力との戦いとも読める

複雑な魅惑がこの作品にはあり、それが抽象ではなく、ブラジャーや胸、

菜食、木や花といった形で表出されるところ、ハン・ガンの才が味わえます。

 

本当にじぶんにとって切迫した作品はアンダーラインを引かせないものがあります。

登場人物と心の対話をし、グロテスクな部分に共感する意外な「私」を発見するのも、

読書の愉しみだと思います。

 

 

 

 

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むすびのさん特製ドリンクは青紫蘇と柚子のドリンクでした。

 

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特製メニューは主題と相俟って、野菜づくし!でした。たいへん美味しかったです。

 

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初めての参加の方も何人かいらっしゃって、楽しんでいただいたようです。

ご参加ありがとうございました。

 

次回は7月25日、ドイツ文学『朗読者』ベルンハルト・シュリンク新潮文庫

をとりあげます。乞うご期待!

 

 

 

【開催案内】オンライン・シネマ哲学カフェ 7.3

 

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映画「万引き家族

 

こんにちは。

シネマ哲学カフェを開催します。一本の映画を事前に見ていただき、その感想を話し合い、映画のテーマを深堀していくオンラインの対話の場です。今回選んだ作品はカンヌ映画際で最高賞を受賞し話題になった是枝裕和監督2018年の作品「万引き家族」です。参加希望者はホームページからお申し込み下さい。聴くだけの参加でも構いませんよ♩

 

 

○テーマ:映画を見て「人が人を大事にする、人に大事にされるってなんだろうか」を考える。

○日 時:7月3日(土)20:00〜21:45
○方 法:Zoomを使用します。
○参加条件:事前に映画「万引き家族」を鑑賞してください。
ファシリテーター:シミズ
○参加費:300円*paypayかamazonギフト券でお支払いください。
○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)

○備 考:開催前日までに以下ホームページからお申込みください。

 

 

dialogue-oita.jimdofree.com

 

裸女のいる隊列

 

 

 

 

伝わらなくても、自分の中で生まれ発せられたことばは、とおとい。

伝わらないことばほど、あなたの中でしか生まれないことばで、なおさら、とおとい。

伝わることばがすぐれているというわけでは、ない。

それは便利だが、伝わらないことばには、そのことばにしかできない、

ことばの役目がある。

 

対話と〈わたし〉のいるところ twitter 

 

 

 

 

 

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一週間だった。

 

 

月曜日

9時間くらい眠っていた。

 

 

 

横井庄一さんが30年近くグアムに潜伏していたときのエピソードを紹介する動画を見た。サバイバル技術が尋常ではなく、あり合わせのもので機織り機まで作って衣服を制作している。粗悪でも酒を作って現実の厳しさを忘れた。横井さんは途中まで3人で潜伏生活を続けていた。19年経って部下が舟を作って日本に帰りたいと提案し、夜になって山から島の海岸線を見下ろしたとき、木々はなくなり、アスファルトできれいに舗装されてしまっており、見つからずに脱出することができないと悟り絶望した。いつか日本に帰れるという希望がなくなった3人は徐徐に疲弊していった。他の2人より年上だった横井さんはお互い気を遣う人間関係を避けて1人別の場所で潜伏するようになった。ある日超大型の台風が島を襲いヤシの実がなくなり、生態系が壊れ、食糧不足に陥って衰弱した。しばらくして他の2人の潜む穴を除くと2人とも衰弱死していた。一緒に潜伏していれば助かったかもしれないと激しい後悔に襲われ自決を考えるも母の顔が浮かび思い止まる。生きて二人の遺骨を日本に持ち帰ることを生きることの支えとした。ある時アメリカ人に見つかってしまい、はじめは抵抗したものの、彼の家に招待され、ご馳走を食べ、病院に行き、日本に帰った。起承転結のごとく一編の映画のようにまとめられていて深く見入ってしまった。

 

 

 

 

 

火曜日

夢。大雨のなかオフィスビルに戻る。Yシャツが濡れて寒い。(実際にタオルケットが体から離れていて寒かった)外国人の女性とすれ違い挨拶をする。その女性は同じビルで働いている違う会社の人のようだ。その人とは数ヶ月前の夢の中で出会った人だった。今日はマスクをしていないので一瞬誰か分からなかったが、向こうから挨拶してくれて徐々に思い出す。遠い夢と今日の夢をつなぐ不思議さと再会できた喜び、暖かな感情がゆっくり甦る。英語か何か外国語で短い言葉を交わす。もっと長く話したい気持ちがあるが、仕事が始まってしまうので行かなければならない。そしてそれぞれの仕事場に向かうところで目が覚める。目覚めた後も幸せの余韻が濃密に残っていた。

 

 

日本の古本屋で購入してそのままになっていた講談社日本現代文学全集94「北原武夫・井上友一郎・田村泰次郎集」に収められている田村泰次郎『裸女のいる隊列』を読む。僅か数頁の短編だがあの戦争のはらわたが剥き出しに描かれている。鉄輪朝読書ノ会でとりあげたいが、入手困難なのと内容があまり凄惨すぎて諦める。課題としてとりあげたいが諦めた作品が選ばれた作品の背景に山のように存在することを書いておきたい。

 

 

小雨のなか走った。

雨に溶けて、雨とわたしの隔たりがなくなった。 

 

 

 

水曜日

朝から大雨。

 

 

阿寒湖のマリモが岸辺に大量に打ち寄せられているらしい。或一定の周期で起こる自然現象のようだ。生き残る選択として〈受動〉を選んだ生物が好きだ。

 

 

全国の刑場跡ばかりを案内する動画を見る。

 

 

『もう革命しかないもんね』のオンライン出版記念対談の申し込みをする。

 

 

 

木曜日

少し晴れた。

 

 

午後から別府公会堂で湯けむり歴史講座に出かける。

今回のテーマは別府の温泉建築。

資料の残る明治期からの別府の温泉建築の変遷をたどる。

全体を俯瞰して思うのは、平成以降建て替えられたものは予算の関係か、

どれも味気ないものになってしまっているということ。

竹瓦温泉(昭和13年)などはほんとうに貴重な建築であること。

しかしそれにしても失礼ながら話す内容は魅力的なのに、

話し方が退屈で寝ている人も多かった。

登壇する立場にある人は、先生とかでももっと魅きつける話し方を

会得すべきではなかろうか。学校などとても大きな機会の損失になり得る。

 

 

 

 

生理中のFUCKは熱し

血の海をふたりつくづく眺めてしまう  

 

林あまり

 

 

 

あ、http://www.jitsuzonwo.nejimagete.koiga.kokoni.hishimeku.com

 

萩原裕幸

 

 

 

現代短歌をぱらぱらと読む。

 

 

金曜日

 

小雨のなか、走った。カエルになった。

 

 

走った後クールダウンにふらふらと歩いていたら、こんもりとした杜のある区域が気になって近づいたところ、なにか素敵な館が杜のなかに建っていて、中に照明が灯されているのが見える。表の方にまわり門にあった表札を見てみると、「おじいさんのもり」と書かれている。なんだこのメルヒェンは。どうも私設の図書館らしく、それも児童図書館で、後から調べたら中学生以下は入館できないこどもの聖域のような場所だ。すばらしい。1985年当時きちんとした公共図書館をもたなかった別府に、大分瓦斯元会長の松本氏が私財をなげうって建てたようだ。自分が私設の図書館を建てるのならこういうのがいいと思わせるような、イマジネーションをかきたてる。災害に弱いオール電化などやめてみんなガスを使おう。

 

ojiisannomori.com

 

 

 

熊が街に出没し、「駆除」されたという。

駆除という言葉がきつすぎる。

命にたいして駆除とか処分は使ってはダメだ。

そうい言語感覚といじめやヘイトはつながっている。

 

 

川瀬敏郎の『一日一花』

今日は室町時代の古銅亜字形華瓶に石榴(ザクロ)が活けられている。

つぼみと開花と実が三位一体となって表現されている。

この本は思い出したときにぱらぱらめくって眺めている本のひとつ。

 

 

 

土曜日

朝方、地震があった。昨晩寝る前に南海トラフ地震5年以内に起こるという警告動画を見て眠ったので、一瞬でもかなり怖かった。夢かと思った。夢と地震の親和性。明恵夢日記にも地震の記述がなかったけ。けっこう揺れた感じがあったがオカユは寝たままだった。

 

 

今日は桜桃忌。以前は三鷹に暮らしていて太宰のお墓が近くにあった。桜桃忌にはたくさんの人が訪れ、桜桃やタバコ、酒がお墓に所狭しと捧げられていたのを思い出す。なかでも、太宰治と暮石に彫り込まれた文字の窪みに桜桃が冗談のように押し込まれていたのはなんとも太宰の愛され方を想起させた。ちなみに太宰の墓の前は森鴎外の墓があった。

 

 

昼、温泉ソムリエ認定セミナーを受講する。

 

別府の豊泉荘で。ここの建物の改修に以前何度も来たことがあり、懐かしい施設だ。利用したのは初めてだ。なかなか高額なセミナーだと思っていたが、その価格に見合う内容だった。温泉分析表を読み込むことができるようになったのは嬉しい。温泉地鉄輪に住んでいるから、温泉の基礎的知識を得たかった。講師の話がうまかった。1秒も途切れることがない。配布されたテキストも450頁以上あり、かなり充実している。じっくり読みたい。

 

隣に座った女性がとても綺麗な人だなと思っていたら、後でミス別府の方だと知った。

 

 

 

夜、オンライン哲学カフェを開催した。 

「声」とはなにか、みんなで対話した。良い夜だった。

 

この哲学カフェは、ぼそぼそと話すことが受け入れられる余白がある。

ハキハキ理路整然と話さなくてよい。

言葉になる前の、思考として形をもつまえの、

つぶやきや独り言のようなものでさえ、オチがなくても語ってよい。

それが哲学かと問われれば心もとないが、

未形のものに対する畏れや敬い、萌芽の可能性は残しておきたい。

そのほとんどが空振りだったとしても。

 

 

 

日曜日

朝起きてカーテンを開けると夏のような光がはいってきた。

清々しい。 

 

冨士屋さんからピアノ曲を練習している音が聞こえる。

トトロの曲が行きつ戻りつ弾かれている。

これ以上ないくらいの平和な日曜日。

 

すこしだけ蝉が鳴いた。早いと思ったのかそれ以上は鳴かなかった。

 

窓を開けていると田んぼの匂いがどこからかする。

この匂いはとくべつ私を落ち着かせる。

だが近くに田んぼなど、どこにもない。

夏思わせる強い光線が、まぼろしの匂いを導いたようだ。

 

 

次の対話の企画や、読書会で読む小説を決める。

こういう時間が一番愉しい。

自分のゆたかさを他者に循環させるよろこび。

以前友人の占い師に占っていただいたときに言われた言葉を思い出す。

 

 

今日は一日中気持ちよい風が吹いていて、

干している白いシャツが風にたなびき、

猫がねむる。

 

それ以外になにがいるというかな。

欲望のうつわが小さくなっていく。

明日は夏至だと、いただいたメールで知る。

 

 

風のそよぎ、温度や光の変化、微かなゆらぎを丁寧に感じていく日々。

 

 

 

 

なぜなら、カミというのは、太古から人間をして心からよかったと思わせてくれてきたものの総称だからである。

 

『ここで暮らす楽しみ』山尾三省

 

 

 

 

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