対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

音溝のないレコードを聴く

 

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2002.10 Seoul 砂埃の舞う大通りを愛した



 

 

 

 

 

漂白とは、たどりつかぬことである。 たとえ、それがどこであろうとも、 われわれに夢があるあいだは、 「たどりつく」ことなどはないだろう。

 

寺山修司「旅の詩集」

 

 

 

 

 

2021.9.27-10.3

 

 

月曜日

プルーストをほとんど読めない一週間。

 

 

 

ピンホールカメラで撮影された写真が好きでインスタなどハッシュタグをつけてフォローしている。わたしの感覚の中でピンホールカメラの映し出すあの滲んだ「現実」のほうがわたしの生きている実感に近くて、故郷に帰ったような気持ちになるが、最近それが自分の極端な近視からきているのではないのかと書いていても思うようになった。朝目覚めたときにまず見る風景がぼやけた滲んだ風景なのだから。すべてが遠い、手が届きそうで届かない、死ぬ最後に横たわったときに見た風景にも似ているけど、強い現実感がある。音も遠く、未来の既視感のようだ。

 

風の旅人を主催する佐伯剛氏がピンホールカメラで撮影した各地の聖地をおさめた写真集「日本の古層」を眺めると、(この言葉はあまり好きではないけど)とても癒やされる。とても優しい。

 

 

 

 

ピンホールカメラはシャッターやファインダーがなく、0.2mmほどの針穴を長時間開くことで写す道具なので、意識的に被写体を切り取るのではなく、無意識のうちに何ものかを招き入れるという感覚の写真行為となります。その結果、生じる画像は、フォトジェニックな人工的建物よりも、岩や樹木や川の流れといった自然の方が、自分の心の深いところに響くことが多くなります。佐伯剛

 

 

 

これを読んで思い出したのが、明治期の写真撮影は露光時間が長く必要で被写体は30分とかじっとそのまま姿勢でいなくてはならなかったことで、そういった緊張時間がワンショットではなくある程度持続したものを求められたのなら魂をうばわれる、魂をぬすまれるといった感覚も肯けた。

 

 

火曜日

窓を開けていると1軒またいで冨士屋さんの庭から咲き始めたウスギモクセイの甘やかな香りがうっすらとどくこの幸福。

 

 

新しいGRが出るらしい。GR3が安くなるといいけど。

 

 

 

いろいろYouTubeを見ても、真剣に見るというよりアンビエントのように見る番組が好きなようで、個人的に好きな小さなお店を訪れて食べるだけの「良々のお通し」というのを見るとはなしに見ている時間を気に入る。あと金剛山山頂のライブカメラとかとても好きで、こちらに向かってみんな手を振ったりおどけたりして、何故だか泣きそうな感情におそわれることがある。夜など誰も登山している者などさすがにいないが、無人のカメラの奥に写る大阪の街の夜景が瞬きをしていてこれもまたぐっとくるのだった。

 

 

 

水曜日

台風性の風がときに強く窓のカーテンを揺らす。

 

 

夜はオンラインで「LISTEN」という本を読む読書対話会に参加する。読書会を自分も主催しているが、いろんな読書会の在り方があるものだと思う。一つはテキストとの距離の取り方で、自分の主催する読書会は文学が対象と言うこともあるのだけど、テキストからなるべく離れないこと、テキストを中心にした対話を目指している。テキストにとことん付き合う、向き合うことを是とする。なので事前にすべてを読んでくるというのが参加条件になる。別の在り方としてはテキストはあくまで対話のきっかけで、それをネタや肴にして語り合うというスタイル。事前に全部読まなくてもよいとなる。自分はそのテキストの可能性を骨の随まで探り当てたい気持ちが強いようだ。作者の思惑を超えてもなお。

 

 

 

木曜日

大分のコロナ感染者数がついに1桁になった。

なんだか肩の荷が少し軽くなったような開放感。

今までと何か違ったことをするわけではないが、気持ちは上向きになる。

 

 

 

 

 

金曜日

ついに十月になった。

台風のあおりのような風が吹く。

気持ちのいい秋晴れ。

台風の影響か僕の持っているストームグラスの結晶体が激しく変化する。

因果関係は分からないけど。

 

 

 

前回の読書会で、キリストとその弟子たちの旅路はつらそうだけど、孔子のそれは楽しそうというある参加者の言葉が残って反芻している。

 

 

土曜日

MacのOSを変更すると動作が重くなるのはあるあるで、以前のMacBookもそうだったけど、、他の人はこれにどう対処しているのだろう。

 

 

 

新しい参加者からの申し込みがある。

ラジオでも聴いてくれたのだろうか。

新規の参加者は場を活性化させてくれるので有り難いし、常に望んでいる。

 

 

 

日曜日

午前中はオンラインで対話勉強会に参加。

 

 

今日は何について話すのか分からないけど、とりあえず参加した。何について話すかも決まっていないのに参加して語り合うのを楽しみにしているという会はなかなかないし、自分の主催する対話の会もそうありたいと思うが、これがなかなか難しい。どうしても選ばれてしまう。構えられてしまうということか。ふらっと立ち寄るようなものでありたいけど。

 

 

哲学対話におけるリスクの回避もしくは軽減するための方法として、事前に哲学対話のデメリット、副作用を伝えておくのはどうかという提案があった。例えば、対話によって参加者との違いが明確になることが自身のマイノリティ性を自覚させ、寂しくなったり葛藤が起きたりすることがあります、みたいな。

 

 

その他諸々様々な問題意識が共有できて、有意義な時間だった。

 

 

 

 

別府湾の向こうから爆発音のようなものが聞こえると思って外の高台に出たら、

花火が遠く微かに上がっていた。

距離の問題か爆発音と花火の打ち上がるイマージュとが甚だしくズレている。

大分ドームの辺りから打ち上がっているのを見ると、

J1大分トリニータがやっとの勝ち星を挙げた祝砲に違いない。

でもまだ降格圏内。J1残留の切符は爆発した切符だ。

 

 

 

 

診察が上手くいっている時いうのは自分の身体の境界というのは感じません。全然感じないです。しかし不安はないですね。自分があるのかないのかあまり問題にならない。

 

 

 

中井久夫

 

 

 

 

 

【開催案内】第六十五回 別府鉄輪朝読書ノ会

 

 

 

 

 

 

 

「そろそろ昼飯を作ろうかなと思ってたんだ。ぱりっとした調教済みのレタスとスモーク・サーモンと剃刀の刃のように薄く切って氷水でさらした玉葱とホースラディッシュマスタードを使ってサンドイッチを作る。紀ノ国屋のバター・フレンチがスモーク・サーモンのサンドイッチにはよくあうんだ。うまくいくと神戸のデリカテッセン・サンドイッチ・スタンドのスモーク・サーモン・サンドイッチに近い味になる。うまくいかないこともある。しかし目標があり、試行錯誤があって物事は初めて成し遂げられる」

 

 

 

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫)

 

 

 

 

 

 

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十月の別府鉄輪朝読書ノ会の案内です。

 

 

十月は世界中に翻訳されて読まれている 村上春樹ダンス・ダンス・ダンス(上・下)』(講談社文庫)読みたいと思います。上下巻とボリュームがありますので秋の夜長にどうぞ。


内容紹介 (「Book」データベースより)
失われた心の震えを回復するために、「僕」は様々な喪失と絶望の世界を通り抜けていく。渋谷の雑踏からホノルルのダウンタウンまで―。そこではあらゆることが起こりうる。羊男、美少女、娼婦、片腕の詩人、映画スター、そして幾つかの殺人が―。デビュー十年、新しい成熟に向かうムラカミ・ワールド。

***
執筆に関して村上は、「(『ノルウェイの森』とは異なり)自分の書きたいようにのびのびと好きに書いた。」「書くという行為をこれほど素直に楽しんだことは、僕としても稀である。」と述べている。wikipediaより

 
○課題図書:ダンス・ダンス・ダンス(上・下)』村上春樹講談社文庫)
○日 時:10月31日(日)10:00-12:00
○場 所:別府市鉄輪ここちカフェむすびの
ファシリテーター:シミズ
○参加費:¥1,200円(運営費、むすびのさん特製の軽食、ドリンク代含む)
○定 員:10名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:課題本を事前に読んで参加してください。
      10/28木までにお申込みください。  

 

 

参加希望者はホームページからお申し込みください。

kannawanoasa.jimdofree.com

 

メモランダム;親ガチャ

 

 

 

Twitterで「親ガチャ」と検索してみていろんな人の意見を集めてみた。

 

 

 

 

 

 

「親ガチャ」って賛否両論あるみたいだけど、俺は言葉ができたことで、共感や救いが生まれたって思うんだよな。拒否感を感じる人は自分の想像外の過酷な家庭環境があるって思いやって欲しいな。あとメディアに気をつけて欲しいんだけど親ガチャは貧乏親VS金持ち親みたいな単純な話しじゃないんです。

「親孝行」「どんな親でも子供を愛している」「子供は親を選んで産まれてきた」「親を大事にしろ」実は当たり前に使われてきたこんな言葉にひそかに傷ついてきた人がいる。俺も皆が当たり前に手に入るものが、手に入らなかった。だからせめて「親ガチャ」くらい許してくれという気持ちがある。高知東生

 

 

親ガチャがなんだ???小室○を見習え。天使

 

 

「親ガチャ」という言葉が若者の間で広がっている。努力したくない若者の言い訳だとする言説が広がっているが、その背景には社会保障のぜいじゃくさ故に親に人生を左右されてしまうという若者の現実があるという。Yahoo! ニュース

 

 

「私の絶望は、障害のある父の元に生まれたことでも、貧困家庭で育ったことでもない。その後の支援が薄く、脆弱な社会社会保障制度、自己責任論がまん延し、行き過ぎた「自助」を強いられる今の日本社会に対してだ」ヒオカ

 

 

親ガチャだろうが何だろうが生まれてきてしまったからには生きるしかない。 たった一度しかない人生なんだから、親ごときで左右されてるんじゃないよ。自分の運命は自分で切り拓け。三崎優太

 

 

親ガチャと聞いて真っ先に思い出したのは上野千鶴子の東大入学式祝辞だな。毀誉褒貶ある彼女だけど、この祝辞はほんまに素晴らしいと思った。日本最高学府へ入学する者たちへの言葉としてこれ以上はないだろう。イワンコクン

 

 

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。上野千鶴子の東大入学式祝辞

 

 

親ガチャという概念も現実も、この国からなくしていかなければなりません。岸田文雄さんこそ、格差に苦しむ方に最も真剣に寄り添い、子どもが親の事情により不利な境遇におかれない社会を目指すリーダーです。 自民党総裁選 岸田氏、「親ガチャ」流行に「寂しく、悲しい」 石原伸晃

 

 

「親ガチャ」にせよ「上級国民」にせよ、それを言い立てている人間の不満はどう考えても政治的にしか解決し得ないのに、「恵まれている」とされる側への嫉妬を共有するだけで終わってしまい、まったく政策論議にはならないところが、資本主義だけは絶対だと思い込まされてきたここ30年の帰結といえる。hhasegawa

 

 

親ガチャ、反出生主義…若者たちは「人生のネタバレ」に絶望している gendai

 

 

親ガチャ、という言葉を最近耳にする。親次第で子の人生は決まるという意味らしいが、政治哲学でも、親次第、運次第という考え方が強くなって結果平等社会を推進する根拠になっている。確かに酷い親はいるし虐待など論外だ。それでも愚直に言いたい。人生を決めるのは努力だ、と。幸福実現党政務調査会

 

 

親ガチャという言葉に対して「配られたカードで勝負するしかないのさ」ってイキってる層には「カードを配ってもらえない」人生への想像力が単純に足りていないと思う。CB

 

 

「親ガチャ」は放送禁止用語へ  デーブ・スペクター

 

 

遺伝子 vs. 努力ではなく、努力も遺伝子だというのが近年の遺伝学ではホットなテーマですね。生物に努力を作動させるのも遺伝子プログラムですから。 Ore Chang

 

 

「親ガチャ」「子ガチャ」っていう言葉が生まれる時点でこの国の政治が機能してないことの証明でしかない。 Plum

 

 

 

その人の知性やセンス、才能も、結局は、その人の当事者性を超えられない、というのが多くの人に周知された結果、「実家の太さ」「上級国民」「親ガチャ」のような、身も蓋もない言葉が溢れるようになった。これらの言葉の持つ圧倒的なリアリティを超えるポジティブな言葉を、我々は生み出せるのか。落花生BOY

 

 

 

 

 

 

 

参考動画

https://vt.tiktok.com/ZSeeupgvq/

 

 

license to live

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2002.10 Seoul 裏路地への抗しがたい魅惑。壁から壁へ

 

 

 

 

ドゥルーズが明確に指摘するように、小津のカットは写真との類似が最も緊密に現れるその地点において、写真のありかたから最も根底的に遠ざかる。


前田英樹小津安二郎の家』

 

 

 

 

2021.9.20-26

 

 

月曜日

夜中にきれいな声の通った鳥が啼いていた。南洋の国で聞くような鮮やかな鳥の。

 

 

私が子ども時分に毎朝見ていた日テレのズームイン朝という番組がYouTubeにどなたかがアップされていて懐かしく見た。そのなかに「朝の詩(ポエム)」という企画があって、7時30分過ぎたくらいにあって、その時間になると興味を失い玄関に出て登校をはじめた記憶がある。(31分31秒のかけ声は聞いていたから、もう少し後の時間かもしれない)「朝のポエム」といっても、何か詩が紹介された記憶はほとんどなくて、「詩」というものをなにか別様の意味で使っていたのかもしれない。

 

 

 

火曜日

 

大島弓子の『毎日が夏休み』が届く。

第1章は「失業は出発のもと」とある。

今の自分のようで没頭して読み始める。

 

 

最近は夜は早めにパソコンの電源を落とし、お酒も飲まず、本を読んだり文章を書いたり、『李陵』の朗読を聴いたりする時間を確保している。そして早めに寝ることも。

 

 

中秋の名月はお隠れになっていてた。

愛知の知人も双眼鏡を構えたが曇りで見えずとのメールが来た。

 

 

水曜日

 

自分でもドン引きしてしまうような夢を見た。自分の嗜好とも離れ、暴力的で映像的な夢。たしか島田雅彦は作家にとって夢を見ることは救いだと書いていた。私から離れる、主体であって主体でないようなそれは、確かに救いである。たとえ内容がどのようなものであれ。

 

 

 

 

木曜日

日差しは強いが風は乾いて涼しい。秋分の日。秋を分けた。

ほんの微かにお隣の冨士屋さんからウスギモクセイの香りが窓からはいっていきた。

それと合わせるように鉄輪の湯浴み祭り。一遍上人像が神輿乗せられて町を練り歩く。

その後上人像の浸かったお湯に入る。

 

 

いつも机の前に並べている書誌山田から出ている稲川方人の詩集。タイトルは「君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習」。古書として手に入れたので、宋敏鍋さんという方の蔵書印が押されている。蔵書印を押す感触の喜びに浸りたかったのか、裏表紙から奥付から至る所に押印されている。もしかしたらこの詩集への賛辞なのかもしれないが。手遊びに宋敏鍋さんを検索してみたら、ニューヨークに住む詩人であり心臓外科医のようだった。

 

宋敏鍋(ソン・ミンホ)

1963年名古屋市生まれ。詩集「ブルックリン」が第三回中原中也受賞。

 

この詩集が読みたいが、アマゾンで検索しても鍋ばかりがヒットしてしまう。

 

 

 

 

 

 

遺稿の文字は明るく刻まれてあった

詩は理性の迫害であるべきだと

先生の最後の電話が切れた朝、

僕の決意は、

海底で哭くオニヒトデのように

ゆるぎない生涯を持て余すかと思った

僕はもう思い出せない

「近代の一日は」と

何を先生は断言したかったのか

雨の塔に列をつくって

僕たちはひとりひとり

苦々しい夏に別れる

それからふたたび木立を抜けて

孤独の砦に帰って行ったが、

別れてなお在ることの憤りは

僕たちに二度と償えないものとなった

 

 

 

稲川方人「君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習」

 

 

 

 

 

 

金曜日

朝、工事の打ち合わせ。日差しが強いが空気は乾いていて気持ちがいい。

こんな季節がずっと続けばいいのにと思うが、

それはそれで平準化してしまうのだろう。

われわれは差異の動物だから。

 

 

今日は意識的にオフの日と定める。今日は勉強はしない。頭を変える。

 

 

OPAMで開催中の糸園和三郎展を見に行く。2ヶ月ぶりくらいの「外出」感を味わう。

すばらしい企画展だった。この絵から離れたくないと思った絵がたくさんあった。

何度か行きつ戻りつしながら歩を進めた。

抽象と具象の加減、内政と表出のバランス、複雑と単純の拮抗、なにより配色のセンス

ピンク色の使い方に驚かされ、バーネット・ニューマンを思わせる帯のようなものが

突然現れたりもする。ものすごい〈格闘〉の痕を感じる。

それを〈祈り〉とか沈黙と呼ぶならそれでもよい。

彼の個人蔵のイコンやルオーの絵にも胸を打たれた。不意打ちのように。

高橋たか子『過ぎ行く人たち』の表紙絵を思い出したりもしたし、

香月泰男のシベリアシリーズも想起させた。

小説もそうだけど優れた作品はその作品を鑑賞することで、

考えがいろんなところに飛ぶことだと思う。

 

それにしても糸園氏は病とともに生きながら手術も拒否し絵画を創作することを選び、

なお八十九歳まで生きていたことに驚かされる。

 

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別のスペースで開催中の書道展にも足を伸ばす。私は無類の変体がな、連綿好きでいくつか気に入ったものを食い入るように見つめた。読めないけど。読めるようになりたいし書けるようにもなりたい変体がな。

 

展示は1階と3階に分けられていて、1階は入選の部、2階は名誉会員や優秀賞の部に分かれていたのだけど、1階と3階ではなんというのか、素人目にも作品から漂う風格(堂々とした感じ)が全然違って、こんなに違うものかと思った。1階の作品群も下手なものなど一つも無いけど、3階のそれはもう立っている場所が全然違う、矢を射った後にずっとそこに留まり続けている人と、射った後既にその場にはいないみたいな決定的な違い。(わかりにくい)

 

 

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ジュンク堂に寄って帰る。ジュンク堂では入口で古本フェアをやっていて、物色していたら高額になっていて入手がなかなか難しい小島信夫『原石鼎』が格安で売ってあったので購入した。五車堂のカツカレーを久しぶりに食べて帰る。美味しかった。

 

 

 

土曜日

昨日は17頃に夕飯を食べた影響か朝はすこぶる調子が良い。

以前勤めていた会社では、夕飯が23時とか1時を過ぎることが多く

体がおかしくなるのは当然だ。

 

 

夜はオンラインでソーシャルカフェを開催した。

テーマは「デートは不要不急の外出か」。

初参加者の方も多く、新しい風が吹き込まれるような気がした。

今回のようにオンラインは安定的であるより、もっと流動的でありたい。

 

 

 

日曜日

午前中、別府鉄輪朝読書ノ会を開催する。

今回課題図書としたのは中島敦の『李陵・山月記』

参加者にいつも以上に熱さや思い入れがあり、

中島敦は若くして亡くなったけど、

こんなふうに作品が支持され愛されて幸せだなあと思った。

 

 

また彼の作品は漢文調で声に出して読みたい日本語でもあり、

なにか朗読を練習する場を作れないかと夢想中。

朗読は文学作品に触れる機会だけでなく、表情が豊かになったり、

腹式呼吸でダイエット効果があったり、コミュニケーション能力の向上や表現力、

声が良くなったりと様々な効用が期待できるようだ。

興味のある方がいらっしゃいましたらお声がけください。

ラジオに出演してからというもの、自分の声について考えるようになった。

 

 

 

 

 

優れた作家たちは、精神科医脳科学者や批評家の力など借りなくても、自分が見る夢に救われます。

 

島田雅彦

 

 

 

 

 

 

【開催報告】オンライン・ソーシャルカフェ 9.25

 

 

 

 

先日、かつてヨーガを個人的に習っていた先生とひさしぶりに電話でお話する機会がありました。近況をお尋ねしたら、「必死の思いでヨーガのレッスンを受けに来る人たちがいるので、感染対策をしながらヨーガ教室はずっと休まずに続けています。」とおっしゃっていました。「必死の思いで」という表現にハッとしました。

 

 

藤田一照「お前はお前の主人公か?」『不要不急』新潮新書

 

 

 

 

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オンライン・ソーシャルカフェを開催しました。

「デートは不要不急の外出か」をテーマに、みなさんと対話していきました。

 

対話に入る前にみなさんの今回のテーマについて考えているところを聞きました。

 

・デートは不急であるかもしれないが、不要ではないだろう

・コロナとどう向き合うか、どう考えるかは個人差があり、その対応の如何によってはお互いがすれ違い齟齬を生む破局に至ることもあるだろう

・感染対策を守っていくと、元々の関係は維持できるけど、新しい人間関係が拡がっていかないことに気付いた

・なので逆にこのコロナ禍のなかで出会えた人とは縁があるのかもしれない

・コロナの中での人間関係をどうするのかがテーマ

・生身の出会いがないと、オンラインとかでは思いやりが行き届かず出会いから結婚に至るのは難しいのではないか

・人間は生きるため(働いて寝て食べて)以外のことが大事なので、これ以上の我慢は無理なのではないか。そろそろ限界にきている

・オンラインによって全国から海外からの人たちとの出会いがあったのはコロナのおかげ

・医学的な知見に基づいた(とりあえずの)正しい根拠でもって行動するということがあまりなされていないのは、政府の対応に問題がある。コロナが原因で破局に至ったカップルは、そのカップルだけの問題ではない。

・コロナが価値観のふるいになっている。

・価値観ってなんなのか

・オンラインで会うことは、「会った」ことになっているのか。

 

最初のみなさんの考えを引き継ぎながら、対話に入っていきました。

 

ここまでが政府のやるべきことで、ここからが個人がやるべきことといった線引きがおかしくなっていて、本来個人が悩んだり議論したりすることではないことに悩んでいるのではないのかという問い。それは政府からの情報不足に起因するという意見もあれば、政府がどれだけ手を尽くしても個人を管理するのは難しいといった意見もありました。カップルがコロナが原因で対立してしまうケース、その原因は誰が作っているのかという問いも。

 

コロナが難しいところは、自分が無症状でも他人に感染させる可能性があるというところで、「他者」をどう考えるのかという哲学や倫理との親和性が出てきます。

 

自粛や行動規制を「やらされている」ととらえるのか、「主体性」をもったものとして自らがやるのか。政府の指導に従うことは受動ではなく、受動的能動ではないのかという意見もありました。またコロナを通して意外にも人に会わなくても平気だという自身の非社交性を発見された方も多いようです。

 

 

この対話に場においても、地方に住む人と都会に住む人との間にはずいぶん温度差というか緊張感の違いがずいぶんあるなと話していて感じました。当然と言えば当然かもしれませんが。その危機意識において、深くシビアに考えている方とゆるく受け止めている方の違いが興味深かったです。もちろん住む場所だけでなく、働いている環境とか一人暮らし家族暮らしによってもずいぶん差が出ますね。クールダウンのための対話語の2次会の語りでは、会うことでいきなりコミットメントが要るという話もあって、そんな覚悟のようなものが自分にはなかったのでたいへん驚きました。会うことの「必死」みたいなのがあるのかもしれません。

 

 

コロナはいろんな切り口で語れそうです。今後また違ったテーマで扱いたいと思いました。ご参加ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

【開催報告】第六十四回 別府鉄輪朝読書ノ会 9.26

 

 

 

 

 

疲労だけが彼の唯一つの救いなのである。

 

中島敦『李陵』

 

 

 

 

 

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第六十四回目の別府鉄輪朝読書ノ会 9.26を開催しました。

 

 

 

今回取り上げた作品は中島敦『李陵・山月記』。いつも女性の参加者が多い会ですが、女性も男性も中国の広大なスケールなかで繰り広げられる群雄割拠のドラマに萌えるのだなあと思いました。

 

 

・今までぺらっと読んでいたが、今回深く読み込んだ。

・『李陵』『弟子』『名人伝』『山月記』と角川文庫や集英社文庫などで作品の順番が違うのが興味深い。

・どの作品も格調高い。声に出して読みたい日本語。気持ちがいい。個人的には思い入れが強い。子路の性格が好き。

・高校時代に読んだときはわからなかった人物の機微が深く分かる年齢になった。作品に自分が追いついた。それにして中島敦は30代前半でこれらを書いた成熟に驚かされた。

・なぜ狼でも猿でもなく虎だったのか。

・男性の物語。ああ人間ってめんどうだなと思う。

・注釈が51頁もある!

・『山月記』を読んで、社会的な成功をおさめたような人しか同窓会に出席しないというエピソードを思い出した。

・『山月記』で※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)えんさんが李徴のことを我が友と咄嗟に呼んでくれたことに救いを見出した。

孔子在っての子路子路在っての孔子だった。

・イエスには子路がいなかった。イエスの旅はきつそうだけど、孔子の旅は楽しそう

孔子は弟子に対して威張ることなくフラットに接している。

 

 

とりあげた4編『山月記』『名人伝』『弟子』『李陵』は、どれも味わい深いもので女性がほとんど登場しない「男の物語」ではあるが、背景に母性を求めるような、また大きな仕事を各人が成し遂げつつもどこか否定しきれない空しさや孤独が大きかったのではないのか、つねに認めてほしいという欲求に苛まれていたのではないのかという意見に頷くものがありました。

 

 

ご参加ありがとうございました。

 
 

今回の作品をイメージしたむすびのさん特製のメニューは、モンゴルの塩気を効かせて栗の入ったミルク・ティーを思わせる羊茶(スーティー・チャイ)広東料理鮎の油淋またモンゴルのチャンスンマハと呼ばれる羊肉を蒸したもの、胡椒は使わず岩塩で茹でて味付けしていました。どれも広大な中国大陸を思わせる贅沢な料理で美味しかったです。今回限りのメニューというのがもったいない!料理提供の方、ありがとうございました。
 
 
 
次回十月は村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫)をとりあげて、みなさまと感想をシェアしたいと思います。
 
 
 

【開催案内】オンライン・ソーシャルカフェ 9.25

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不要不急

 

 

オンラインでのソーシャルカフェの開催案内です。


今回のテーマは「デートは不要不急の外出か?」です。コロナ禍における、「不要不急の外出」についてみなさんと考えていきたいと思います。「デート」は象徴的に扱い、広くコロナ禍の「不要不急」について問いたいと思います。また以下の記事を参考にしますので、事前にお読みください。

コロナが原因で終わった婚活カップルの「事情」 | 仲人はミタ-婚活現場からのリアルボイス- | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース



○テーマ:「デートは不要不急の外出か?」
○日 時:9月25日(土)20:00〜21:45
○方 法:Zoomを使用します。
○参加条件:ネット記事を事前にお読みください。
ファシリテーター:シミズ
○参加費:300円*paypayかamazonギフト券でお支払いください。
○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:開催前日までに以下ホームページからお申込みください。

 

dialogue-oita.jimdofree.com