対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

肥前ノ旅6「伊万里市民図書館」

 

 

 

世界から身を退くことは個人には害になるとは限りません.…しかし一人撤退するごとに、世界にとっては、ほとんどこれだと証明できるほどの損失が生じます。失われるものとは、この個人とその同輩者たちとの間に形成されえたはずの、特定の、通常は代替不可能な〈間〉in-betweenなのです.

 

『暗い時代の人々』ハンナ・アーレント

 

 

 

 

 

この旅の目的の一番は伊万里市民図書館を訪問することだった。

図書館司書の資格をとったときに何度も先進事例としてあげられるこの図書館。

行政と市民が一緒になって建設や運用について考え実行した図書館の事例として、

全国から視察があり、もっと言うと全国にファンがいる図書館である。

 

前日訪れた武雄市のTSUTAYA図書館の首長が推進した図書館とは、

在り方が根本において違う。

 

私は今回初めて訪れて驚愕したし、感動もした。ファンになった。

人を一人も取り残さないとは、ここまでしないと言えないと思った。

でもしていることは地道で地味な積み重ねだ。

TSUTAYA図書館のようなきらびやかさはない。

でもここにはアーレントが言うような応答する公共空間が確かに具現化されていて、

胸が熱くなったのだった。

 

特別に許可をいただいて、撮影させていただいた。

ありがとうございました。

 



利用者、市民の声が反映しやすい仕掛けがたくさんあった。

 

POPによるコミュニケーションの量と質に圧倒される。仕事じゃない。真似でもない。

本物の愛情と情熱がなければできないし、伝わらない。

壁面のいろんな場所に宣言やスローガン、鼓舞する言葉が並ぶも、押しつけがましくなく、対等な目線を感じる

対話的な態度を表明する館長

プレートはすべて伊万里焼の群青で

 

市民からの、図書館とは、公共空間とはなにかの問いへの応答がすべてここにあるのだった。

 

 

肥前ノ旅7「秘窯 大川内山」につづく

肥前の旅5「洋々閣の朝、虹の松原」

 

 

 

「現れの空間」は、他者を有用かどうかで判断する空間ではない.

 

「現れの空間」は、他者を一つの「始まり」とみなす空間、他の一切の条件にかかわりなく、他者を自由な存在者として処遇する空間である.

 

『公共性』齋藤純一

 

 

 

 

 

洋々閣での目覚め。朝食。

かわしまの豆腐や干物、らっきょう、麦のお粥と体にやさしく美味しかった。

また朝食室も居心地の良い空間。

洋々閣は窓枠によるフレーミングがどれもすばらしい。

上質な空間になかなか出発し難いものがあり、しばしラウンジで珈琲を飲んだ。

 

ラウンジにあった本棚の書籍がなかなか充実していた

さようなら、また来ます





そういえば前日の夜は竹屋の鰻丼を食した。

切れの数で値段が決まる。肝の吸い物も美味しかった

1923年(大正12年)建築の登録有形文化財の建物もまたよし



唐津の虹の松原 全長4.5km 幅500mの松原が広がる。日本三大松原のひとつ

鏡山展望台からの見晴らしは素晴らしいが足がすくむ高さでもある

虹の松原の中道を通る

 

予定を変え、北上して呼子に行くのはまた次の機会とし、

本命の伊万里市民図書館に南へ向かった。

 

東経130度の交差点



 

肥前の旅5「伊万里市民図書館」につづく

 

肥前の旅4「唐津 洋々閣へ」

 

 

 

アーレントは、公共的空間を「人びとが自らが誰(who)であるかをリアルでしかも交換不可能な仕方で示すことのできる唯一の場所」として定義する.

 

『公共性』齋藤純一

 

 

 

 

 

 




あこがれの唐津 洋々閣へ宿泊した。

雨が降っても、夜になっても、その佇まい、細部まで、どっしりと

居ることの時間の豊かさをその陰翳のなかにやさしく感じさせてくれて、

時間の厚みの重力のなかにここちよく包まれた。

働かれている方々とのやりとりもまた愉しく。

設計を手がけた柿沼守利氏にも強い関心を抱いた。

 

 

 

肥前の旅5「洋々閣の朝、虹の松原」につづく

 

 

 

 

肥前の旅3「武雄の大楠」

 

 

 

公共性は、何らかのアイデンティティが制覇する空間ではなく、差異を条件とする言説の空間である。

 

『公共性』齋藤純一

 

 

 

 

 

 

武雄市図書館の近くにある武雄神社を参拝して、

その奥に武雄の大楠が立っていた。

 

大楠に行き着くまでの道が新緑の木漏れ日に溢れすばらしく、

また大楠が立っている舞台のような(仰ぎ見る傾斜)在り方もまたすばらしく、

地域の人に大切にされていることが伝わった。

 

樹齢3千年。

古代から現代へ。

文化の拠点が最高のロケーションにある。

また来たいと思った。

 

 

肥前の旅4 「唐津 洋々閣」へにつづく

 

 

肥前の旅2「武雄市こども図書館」

 

 

 

公共的空間とは、自らの「行為」と「意見」に対して応答が返される空間である.

『公共性』齋藤純一

 

 

 

 

隣接する武雄市こども図書館へ。

人口5万人の小都市にこどものためだけの公共図書館があるというのはすばらしい。

地域のお父さんお母さんに利用されていた。

 

 

 

 

この段々の階段兼本棚がよかった。フリースクールにもほしいな



いたるところに小空間がありこどもをワクワクさせる装置となっている



図書館内にある飲食店

ロッカーはキーホルダーが可愛かった



神は細部に宿る。

本の力、デザインの力、レイアウトの力、設えの力、人の力…

限られた面積のなかで、図書館であること。

 

 

肥前の旅3「武雄の大楠」

 

 

 

肥前の旅1「武雄市図書館」

 

 

 

ところが、私たちが”privacy”という言葉を用いるとき、それはなによりもまず剥奪deprivationを意味するとはもはや考えない。

 

第二章 公的領域と私的領域『人間の条件』ハンナ・アレント

 

 

 

 

「私的」であると言うことは、他者の存在が失われていることを意味する.

 

『公共性』齋藤純一

 

 

 

 

みじかい肥前、佐賀への旅。

佐賀はいつも通りすぎていくばかりだったけど、

今回の旅ではその精神性が確かめられた。

よい旅だった。

 

最初にむかったのは西九州新幹線が開通したばかりの武雄へ。

お目当ては、光と影のあるTSUTAYA図書館が運営する武雄市図書館へ。

 

 

館内の撮影OKの箇所は、1階と2階に2つあった





 

まず船のような形をした御船山を背景にしたロケーションがすばらしい。

 

なんというのか気持ちがいい。駐車場とかも機能性だけでない、ゆとりが感じられる。

 

それらも含めて風景としてデザインされているような。

 

館内は、商業空間と公共空間がなだらかに連続していてスタバもあり、

 

人の呼び込み(賑わい)としては成功しているように思われる。

 

平日でも人が絶えないようだ。

 

ただ図書館としての利用者(市民)ファーストかと言えば、

 

そうではない部分もたくさんある。

 

賛否の議論には踏み込まないが、翌日伺った伊万里市民図書館の衝撃と比較すると、

 

ここに「人」はいるのかという問いが生まれる。

 

消費者ではなく、人が、人として、居ることのできる場所なのかと、

 

図書館や公民館という公共の場所は、本来そこを目指すべきなのではと

 

気づかされた。

 

肥前の旅2「武雄市こども図書館」につづく

 

わざわざ外で本を読む。

 

 

 

 

 

畝が湿っている時の安心感と言ったらない。その後に晴れて、畝の表面が乾燥してきているけど、指で穴をあけると、中がまだ湿っている時、それを確認するのが好きだ。こんなことが好きだなんて、僕は知らなかった。僕は好きなものが増えた。

 

『土になる』坂口恭平

 

 

 

 

 

月曜日、日曜日

曜日の感覚が消える連休。

 

 

ゴールデンウィークはとにかく勉強して、考えてを繰り返す。

公民館でのワークショップの構成と細部やこども哲学。

楽しいが頭にかなりの負担がかかるらしく、睡眠時間は9時間はとる。

 

 

旅は来週にずらす。

佐賀の洋々閣に泊まり、呼子の朝市、伊万里市民図書館、武雄図書館、磁石場を

訪れる予定。JRとレンタカーを活用する。

 

 

長渕剛がラジオで親のすねはかじりまくれと言っていた。

自立なんて、簡単に言ってはいけない

私も同感である。

 

 

珠洲市での地震

10年前くらいにちょうどGWに旅したところだ。

能登半島というのは(どの半島もそうだが)漉しがかかっていない、

なにか凝縮されたような濃密さのある場所で、漆文化もそうだけど、

国東半島にも似た辺境感があった。

 

 

 

ふとした瞬間に森を感じる。

 

 

 

図書館で借りた『軽井沢 はじまりの森暮らし』が眼福。

縦に長いレイアウトも気に入っている。

そしてなぜかこの本はいい香りがする。

この本を購入した司書さんに感動。

 

森は信じられる。

森が信じられるのは、ねこを信じられるのと似ている。

ピュシスに触れてこそ、ロゴスが生きる。

 

 

 

 

 

かたちなき生成

生成とは何だろうか。未分化な卵が果たす生とは何だろうか。

私はそれを。〈かたち〉なき場面に〈かたち〉が生じてくるような、つまり〈すがた〉

なき世界から〈すがた〉が現れてくるような、力のみなぎる場面であると描きたい。

ドゥルーズにとって、まずもってリアルであることとは、卵から何かが生じてくる

ような、新しい生成の現場なのである。

 

ドゥルーズ 解けない問いを生きる』檜垣立哉