十字架のない教会はこのホテルの窓から見えるあの山の中腹あたりにあるはず。
旅の最終日。この日は台風の影響も抜け、朝から快晴。日差しが鋭かった。今回の旅の一番の目的はこの読書会でもとりあげた田中小実昌『アメン父』に出てくる呉にある十字架のない教会を訪れることだった。読書会の後も熱に浮かされるように『アメン父』は私をとらえていた。散文の形式において神や宗教の問題を考えたいというのがここ数年来自分のテーマとなっていて、『アメン父』はその最上のテクストのひとつだった。ネットでの少ない情報、それも10年以上前の情報を手掛かりに傾斜地を目指して進んだ。
公道なのか私道なのかわからなくなってきた。この道で正しいのか確信がもてぬまま進んだ。
進むに連れて道が細くなっていった。
折れ曲がった番地札に講談社文芸文庫の巻末年譜にある住所が書かれていて、このあたりだろうと見当をつけることができた。
階段をわけも分からぬまま上がると、十字架のない教会についにたどり着いたようだ。私有地なのでこれ以上進めないなと思っていたところ、どこからか人の声がする。奥で草刈りをしている人がいる。この土地の所有者の方らしい。田中小実昌について話すと快く敷地のなかに入れてくれた。まれにこの教会を見に人が来るそうで、前回は北海道からだったらしい。名前を聞くと伊藤さんという。『アメン父』に出てくる父種助氏の後を継いだ伊藤八郎氏の息子さんだと思われる。伊藤八郎氏は田中小実昌の妹ミチの夫でもある。
アサ会の十字架のない教会。年譜によると1933年に建てられているから築85年にはなる。
「一年後にできた教会の建物も、教会堂とはよばなかった。中段と言われていた。山の側面に、ぼくたちがいる家がいちばん下、そして中段、ずっと上の山の尾根にも家があって上段とよんだ。教会堂ではなく、ただの中段なんて、名前がないのとおなじだ。(中略)中段には十字架もなかった。」『アメン父』
この場所は呉の港湾が一望できた。戦時中は憲兵が来て、港湾の方を見るなと言われたそうだ。見るなと言われると余計見たくなると伊藤さんは語った。
(当たり前だけど)建物の位置関係など『アメン父』に書かれてある通りで感動した。右側に見える家は上段から運んで建て直したものらしい。おそらくここで父種助氏は亡くなったのではないか。
「中段は、ぼくたちが住んでる家からは、直線で二〇メートルぐらいななめ上にあった。中段の建物の片側はぜんぶ窓で、窓の下には雑木がいっぱい見えた。秋から冬にかけてドングリの実ができる木がおものようだった。そんなに大木ではない。みどりもたいして濃くはなかった。木と木のあいだもまばらな隙間があって、あかるく陽がとおっていた。広島県の瀬戸内海にのぞんだ軍港町呉の南にむいた山腹で、あかるい土地だったのではないか。」『アメン父』
「この家は上段にあったときは、広い庭のなかに泉水をうしろにした茶室ふうの家で、まわりをぐるっと縁側がとりまいていた。
下にはこんでからは父の部屋になっていて、父はベッドもこしらえさせた。(中略)
父はこの部屋で昭和三三年(一九五八)三月に死んだ。七三歳だった。そのとき、ぼくはこの部屋にいたのだが、ひととつまらないことをしゃべっていて、父が死んだのを知らなかった。」『アメン父』
信者さんの洗礼に使われたという水場が残っていた。これも作品に書かれていて、現存していることに胸打たれた。
「洗礼をうけたのは、ぼくのうちのよこのプールだ。(中略)洗礼をうけたプールは、この部屋から三、四メートルぐらいむこうにあった。長さ三メートル、幅一・五メートルぐらいの小さいプールで、地面からは高く、地面に長方形のコンクリートの箱をおいたようだった。」『アメン父』
それにしてもものすごい傾斜にへばりつくように建っている。投入堂のようだ。この場所だからこそ開発を免れて残っているのかもしれない。でも十年後もあるのかどうかはわからない。
「十字架のない教会の建物はめずらしく、タタミをしいた教会もあまりなく、それが雑木のなかにたってるのも、じつはめずらしいことかもしれないが、十二畳のタタミに六畳はたっぷりある広い廊下がついた建物そのものは、くりかえすが、なんのかざりもない建物だった」『アメン父』
すぐ近くにお墓があり、ここに種助さんも、小実昌さんも娘さんの作家田中りえさんも眠っているとのこと(凄いお三方!)。しばし手を合わせる。今回は偶然伊藤さんがいたので中に入れて、案内もしていただいた。こんな僥倖はない。ありがとうございました。
初日に訪れた尾道の志賀直哉旧居は、しっかりと公的に維持管理され看板もあり、案内人も常駐している。それに比べてここにはそういった公の庇護はないが、伊藤さんは見に来る人のために草刈りや木の伐採をしている。放置すればあっと言う間に山に埋もれてしまうようだ。両者を比較しても詮無いことだが、体験として生々しさをもち、圧倒されるものがまるで違ったのだった。わたしはなにかのはらわたを覗き込んでしまったようだ。
「この本は父の伝記でも、ぼくの父へのおもいででもなく、(いまでも)アメンが父をさしつらぬいていることを、なんとか書きたかった。」『アメン父』あとがき
※「田中小実昌データ・ベース 年譜」を管理されている方に許可をいただいて、年譜をリンクしています。
十字架のない教会の余韻を残しながら、帰りの電車の時刻まで時間があったので、呉のまちを散策した。潜水艦をはじめて間近に見た。
あなご丼は高かったので、妥協してあなごうどんに。美味。
旅は終わる。
この読書会で『アメン父』をあつかったときの開催報告です。