GW中は、なかなか外に出られないこともあり、
いくつかのオンライン対話の企画を実施してみました。
5月2日は「悩める教師たちのオンライン読書会」と称して、
『学校は、何をするところか?』苫野一徳×菊池省三(中村堂)
を事前に読んでいただき(読まなくても可)それについて対話する会を開催しました。
参加者は全員で14人。教育関係の方が9名でそれ以外の方が5名。
女性が8名、男性が6名でした。
この本を頭から順に読みつつ対話を深めていこうと思っていたのですが、
第1章第1節にある苫野さんの「民主主義において必要なのは『道徳教育』ではなく
『市民教育』である」のところで2時間まるまると費やしました。
今回ですべて読み切るつもりはなかったので、これはこれでよかったと思いました。
と開催報告をまとめているところで、AさんBさんからご意見メールをいただきました。
・理念だけが飛び交うのではなくて、
・理念の源泉。なるほどー。教育を語る時、
・あと、Aさんの言われる、『話が堅くなる』
・昨日、二次会のさわりだけ見ていたのですが…
・(参加者Dさんの運営されている)オルタナティブスクール、
・個人的に昨日は、道徳教育の話ができて、大満足です。
・その人にとってビビってくる意見って、
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開催報告に関してなかなかのミッションを与えられたのですが、、ひとまず残されたメモをもとに書いてみたいと思います。
今回は「教育」といっても、小中の先生、大学の先生、先生をやめてオルタナティブ・スクールを運営されている方、また教育委員会、社会教育に携わっている方、苫野ゼミの卒業生の方、また先生ではないものの今回のテーマに関心がある方といろんな方に集まっていただきました。
最初に自己紹介とともに、本を読んだ感想や関心のあることを聞いてみました。
・教育について考える事と哲学カフェや対話について考える事は似ている。親和性がある。
・学校は授業の時間がすべてではないのに、この本では授業内の話しか書かれていない
・学校を辞めてデモクラティック・スクールを開設した。アドラーの心理学などとりいれてながら新しい学びの形を模索している。非常勤として学校には関わっている。この本に書かれてあることと考えは近い。
・公教育における相互承認とは。菊池先生と苫野先生の微妙な違いが興味深い。スピードの菊池先生とじっくりの苫野先生みたいな。
・現場で道徳教育の押しつけに違和感がある。
・学校での上下関係、一方向的な決定に不満がある
・いまコロナの影響で苦闘されている先生方の悩みなどを聞きたい
・現場に余裕がない。立ち止まって考えたい。道徳教育の是非について
・コロナをきっかけとして教育の本質に立ち戻れるいい機会なのでは
・同質性を求める日本の学校教育に限界を感じている
・2年後に子どもが小学校に入るので、いろんな先生方の話を聞いてみたい
・そもそも論をやりたい。道徳教育について考えたい
対話は続いてこの本の第1章第1節の
民主主義において必要なのは『道徳教育』ではなく『市民教育』である
苫野一徳
をめぐってなされました。
家族を大切にしましょう、挨拶をしましょうといったことについて、
それが大切なことであることは理解しつつも、
この哲学対話のように正解はひとつではないわけだし、
子どもにそれを押しつけたり、刷り込んだりすることに抵抗があるというのが、
ひとつ大枠として何人かから出された意見でした。
それに対して、たとえばルールなどを決めていく場合は、
生徒とともに対等に決めていく、それが当事者意識を持たせることにつながる
といった、押しつけでないやり方を実践されている先生の話がありうんうんそうだ
と納得しつつも、
またそれとは違う観点から、
否定的に語られる道徳教育であるが、
子どもになにもかも決めてもらうのは酷ではないのか、
大人がある程度道筋をつくってやることも大事なのではないのかという
反論がなされ、これにも確かにそうだなあとなりました。
その後北欧の学校教育の話や(スウェーデンは休校していないらしい)
麹町中学校や地域みんなで幸せになるという社会教育の話、
より良い社会とはなにか、その最終目標が共有できてるのだろうか?
という問いもなされ、
このあたりで時間切れとなりました。
終わって二次会では、こういう教員やその他の方々とフラットに語れる場が
あることに感動したとの声をいただいて、
主催者としてはずいぶん勇気づけられたところでした。
ひとまずレポートはこんなところで。
ご参加いただいたみなさまありがとうございました。
この会はシリーズ化していきたいと思っていますので、また次回ご期待ください。