君こそがマスターを持たない最初の人間になるかもしれない。
オンラインでシネマ哲学カフェを開催しました。
今回は「ザ・マスター」(2012年製作・監督ポール・トーマス・アンダーソン)を
題材とし、参加されたみなさんに事前に見ていただいて、感想を語り合いつつ、
こじれた自我や過去の重荷との向き合いについて対話をしました。
わからなくて3回見たという方、意味不明なシーンがたくさんあるといった
意見もあれば、わかりやすかったというものもあり同じ映画を見ても、
こんなに多様な見方が出るのかと驚かされました。
形のない怒り、憎しみにマスターが言葉を与えることによって、
(たとえそれがフィクションであれ)
なんらか怒りが定位をもち、一時落ち着くことはできたものの、
フレディにとって根本的な救済にはならなかった。
(私は宗教で救われたという方のその救われの浅さが気になることがあり、そういう意味ではフレディのマスターとの決別には浅い救済への拒絶があるように思えた)
こじれた私と藻掻くことの諦念がなんらかラストのふっきれた感じに
つながるように思えました。
他人を知るということはどういうことなのか。
過去〜であったからこうであると認識するのか、
今目の前にいること、それで充分ではないのか、
そんな問いもあり、人間理解の認知を巡る映画だったのかも知れません。
ご参加ありがとうございました。
「ザ・マスター」興味のある方はぜひご覧ください。