自分の人生のなかで〈アイヌ〉との接点があったのははるか昔、
19歳の頃大学受験浪人のため新聞奨学生として上京していたときだった。
ほかの新聞奨学生たちと恵比須の寮に住んでいて、
自分の配達する区域と同じところを担当する先輩のAさんが北海道出身で、
アイヌのクォーターということだった。
毛深くて顔の彫りも深く、そしてなにより真冬でも全裸で掛け布団一枚で
寝ていたのが強烈に記憶に残っている。
共有していた配達用のバイクの鍵をとりに夜彼の部屋を訪れると
寝ていることがあって、ごそごそと裸で布団から熊の冬眠開けのように
起き出すのであった。
遊びにみんなで彼の部屋に入ると、
なんか獣臭いと裏でからかっていて、その匂いの感じも今でも記憶にある。
東京というのは私も含めて地方のいろんな人を集める強い求心力のある場所なんだと
ほかの新聞奨学生達の顔ぶれとともに若い自分は興奮していたものだった。
恵比須が代々木から近いので、代々木アニメーション学院に通う人たちが
この寮には多かった。彼もそうで、部屋にはデッサンの絵が散らばっていた。
今でもアニメの世界に関わっているのだろうか。
生きているのかどうかも、わからない。
その恵比須の専売所を経営していた社長はとうに亡くなり、
その思い出深い寮も取り壊された。
私は大学に合格し、その寮を去り、大学も5年かかって卒業して、
気の進まない職に就き、煮えきれない日々を送っていたところ、
ある日無性に恵比須に行きたくなって7,8年ぶりかにその寮へむかったところ、
ちょうど取り壊しの最中だったのだ。
家にも意思があり、呼ばれたということだったのか。
むしろそのときは私は家と区別がなかったのかもしれない。
解体を惜しむように写真をたくさん撮った。
ショベルの壁に食い込む爪が痛かった。
私はいつも最後の弔いに立ち会う役回りが多いようだ。
話がそれた。
旅の3日目は十勝の平原をひたすらに走っていった。
荒野ではない。それぞれに人の息、人間の営みがかかっている大地。
だからさびしさは、ない。荒涼ともしていない。
とても充たされている気持。
土、大地とともに生きている強い確信がある。
でも帯広の街にはいった途端、さびしさを感じた。
ほんとうに寒々しい。
でもそれは文化。文化は慰み。人間にとって必要なもの。
それはそれでまた別種の光。
ふたたび『アイヌ歳時記』萱野茂(ちくま学芸文庫)よりアイヌの言葉。
「ライヘネヤ モコロヘネヤ アコンラム シッネカネ タナクカネ
(死んだのか眠ったのか 私の思いが もつれてしまい
でこぼこになり…)」