日が暮れるのが早くなった。
冬はなんというのか、夜にむかって暗くなるというだけのことの、
寂寞の程が尋常ではない。
そんななかにあって、町の灯り、特に新しい店のそれなどは
大いなるやさしさとなり、慰めになる。
都会のクリスマスのイリュミネーションなど、
その冬の寂寞感から逃れるためにあるのではないのかとさえ思っている。
町で行う読書会や哲学カフェは、形のない町のともしびだとも思う。
そうであればいいなと思う。
息をするのもやっとな年末年始で、ただ日が陰、日が昇るのだけは
しかと受け止めつつ、一日一日、一週間一週間が過ぎていく。
町のやさしさ、会のやさしさ、人のやさしさ、は休息につながる。
そういうのを提供できていたらいいなと思う。
写真にもやさしさはある。
或る、まなざされたやさしさ。
怒濤の一週間。怒濤A、怒濤B、怒濤C…が続いていく。
たしかに字の如く、怒濤は怒りに似ている。
そんななか文学や映画や写真といった芸術に触れることは、
なんと魂のなぐさめになることか。
それもまた私にとってのやさしいともしびなのだし、
それを読書会で穏やかに共有できることも愉しいことで。
文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生まれたのである。
途轍もなく丈高い草の蔭にいる狼と、途轍もないホラ話に出てくる狼とのあいだには、ちらちらと光ゆらめく仲介者がいるのだ。この仲介者、このプリズムこそ、文学芸術にほかならない。
『本物の読書家』乗代雄介(講談社)