対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

紡がれる鉄輪

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鉄輪の町を歩くときは、自然と歩幅もひろくゆっくりとしたものになっている。

 

鉄輪は母が若かりし頃美容師として修行した町。

 

母には母の、私には私の鉄輪の記憶があり、

 

それらは寄る辺なき人生のなにかしらの止まり木となって

 

慰安の場所になっているに違いない。


人は記憶によって守られているし、生き長らえることもできる。

 

幸不幸関係なく。

 

私のいう記憶とは、忘れてしまったものも含んでいる。

 

いや寧ろ忘れてしまったものこそ、今の私をつくっているに違いない。

 

すぐれた写真はそういうものが写っている。

 

まれに深夜、だれもいない鉄輪の町を徘徊すると、

 

そういうもので圧倒され、興奮にのまれることがある。

 

そうしたとき、徘徊して私に見られることで解凍されるアーカイブとは、

 

死者そのもの。建物とか地霊とか猫や樹木も含めた、死んだ者たちだ。

 

 

 

 

「夜の羊達」井坂洋子

 

さよなら とさけんだ時は

 

君はもう眠るように見知らぬ時へ

 

腕いっぱいの羊達と

 

よりそいささめきながら

 

歩いていって

 

私は昨日の土地へ

 

みすてられているのだ

 

“さよなら”

 

ともう一回さけんで

 

もう一回君の生あたたかい息が

 

戻ってくれたら と

 

たくさんの暗い陰といっしょに

 

おもみが肩にあざをつくって

 

どんどん流されてゆくのに

 

それでも

 

恨めしく振り返ってみるのだ