松永久美子をはじめとして、手足や身体のいちじるしい変形に反比例して、なにゆえこの子たちの表情が、全人間的な訴えを持ち、その表情のまま、人のこころの中に極限のやわらかさで、移り入ってきてしまうのだろうか。
『苦海浄土』第二部 神々の村 第一章 葦舟
1週間のふりかえり
月曜日
幻肢じゃないけど、フリーになっても月曜日というのはなんとなく嫌なものだ。
昨日は暑くて今日は肌寒いこの急激な温度差のせいか、めちゃくちゃ調子悪い。
たとえば季節の推移とかそれに応じて表情を異にする外界の事象であるとか、とにかく存在が無意識にその変化を符牒として読みとり、そのつど乱された調和を回復してゆくことになる刺激の総体は、われわれの生の条件と死の条件とを同時に開示するものとして、あたりを埋めつくしている。それをいま環境とも、風土とも、世界とも、ことによったら歴史と呼んでしまってもいいと思うが、そうしたものの秩序が急激に崩れるときに精神と肉体が蒙る不快感は、生の条件を構成するものの無数の系列を一瞬顕在化させながら、ウイとノンの選択を許さない苛酷な限界点のありかを、不可視の領域にほのめかすことになる。
『批評あるいは仮死の祭典』蓮實重彦
火曜日
以前から参加したいと思っている課題型の読書会があるのだけど、
選ぶ本選ぶ本どれもが高額で、参加費も合わせるとかなりの出費になる。
むろん文学の体験はそのお金を上まわるものだとは思うけれど、
自分が主催している課題型の読書会で選ぶ本は、
できるだけ参加者の負担にならいよう文庫化されていたり、
購入しやすいもの選んでいるつもりで、
そこの主眼の置き方は読書会をどう捉えているか、
参加者をどう考えるかなどにむろん直結している。
晴れ間をぬって走った。いい汗をかいた。
水曜日
1ヶ月以上かかって読み終えた。
しばし放心状態。とんでもねえものを読んでしまった。
小説は長ければ長いほどいいと思う。
次はプルーストだ。
家の柱が古くてかさかさしているので、椿油を布に染みこませて塗布した。
いい香りが柱を通りかかるたびに嗅がれる。
今の世の中、この論理と倫理が完全に分裂しています。論理的な奴ほど倫理的じゃないでしょ(笑)知の力が何一つ温かいものに結びついてない。これは知識がすべて表象をベースにして成り立っているからです。表象は自我です。だから、こういう世界になるのは当たり前なんですよ。
半田広宣さんtwitterより
木曜日
散歩していると、ある時間にだけガラスに反射された十字架のような紋様が
現れる場所がある。単なる桟だけど。
カクレキリシタンの名称であるが、長崎県下各地において彼ら自身はみずからカクレキリシタンとは称してこなかった。生月では「古ギリシタン」「旧キリシタン」、平戸では「辻の神様」、外海では「昔キリシタン」「古ギリシタン」「しのび宗」、五島では「元帳」「古帳」というように地域において異なっていた。実際には仲間内ではこのような名称を口にすることはほとんどない。以心伝心である。
『カクレキリシタン』宮崎賢太郎(長崎新聞社)
晴れるといつまでも日が長いのがわかる。
この暗くなるまでの間延びした感じがすばらしい。
チルアウトと言うのかな、窓辺から見える鉄輪の湯煙に、
向こうに見える別府湾の景色をいつまでも見ていられる。
金曜日
友人と約束して、OPAMの佐藤雅晴展を見に行く。
社会批評のような路線をアートの題材とするならば、
当然その批評眼の鋭さが作品の質に直結し、
そこをベースとした抽象力が作品の飛躍に創造につながるだろう。
しかしその肝心な批評眼や抽象力が弱ければ、
安易でありがちなイメージの周辺を出ることができずに、
無邪気な異化作用にとどまり、
現実に裂け目も再構築も生まないものになってしまうのではなかろうか。
特別展も見た。
福田平八郎はいいなあとお互い話す。
別れた後、育てている梔子の写真をメールで送っていただいた。
今は夜半に香るらしいが、梔子の香りってどんなんだろうと想像してみる。
けれど、どこへ行くにせよ、あなたがあなたの花を咲かせられるようなところへ行かなくてはだめだ。それだけはいっておく。どこであろうと、あなたが持って生まれた才能を伸ばし、それがその場所に生きる大勢の人たちの役に立って、大きな花を咲かせることが一番大事なのだから。そういうところへ行きなさい。ぜったいにそういう場所へ行きなさい。
『眼と太陽』磯崎憲一郎
土曜日
朝からびっくりするくらいの晴天に恵まれる。
すべてがきらきらしていた。
午後からは東大の表象文化系のオンライン講義を5時間近く聴講。
みんなの声がいい。
吃音の身体性を生々しく体感。
「はぐれている手」「過剰な手」「オンラインの顔面中心主義について」
民主主義の基盤とは「戦争に行きたくない」と言えること。などなど
久しぶりに大學の講義を聴いて、学生時代の豊穣な時間を思い出した。
次の哲学カフェのテーマを「声」に決めた。
シネマカフェの映画を「万引き家族」に決めた。
夕方走った。
走りながら聴いている音楽をいつまでも聴きたくて、いつまでも走っていた。
日曜日
今日は別府鉄輪朝読書ノ会の日だった。
参加者にとって長年避けてきた作品だったようだが、
これを機に読んで生涯の一冊となって感謝しますと言われた。
大きなバトンを受け取り、受け渡し、受け取り、受け渡す。
午後からは別のオンラインの哲学カフェに参加。
丁寧な進行は参考になる点が多い。
いろいろと他の哲学カフェに参加して思うのは、
自分が主催している哲学カフェはなんというのか、文学的というのか、
格好良く言えばある叙情がそこにあるように思えた。