学校の中に目的がないことを認める場所を作ることは、とても大切なことではないかと思っている。
『哲学対話と教育』「そういえば、結局のところ、対話するってどんなことだろう?」中川雅道(大阪大学出版会)
悩める教師のためのオンライン対話を開催しました。
今回は「〇〇を学校教育にとりいれるべき」というテーマで、
参加者のみなさんが考える〇〇を寄せ合って、意見交換をしました。
みなさんが学校にとりいれたいこと
・哲学および哲学対話
・命を守ること(いじめ対策、ウサギ小屋の撤廃など)
・自由時間(好きなことをしていい授業)
そもそも大人同士が対話できていないに始まり、
学校って何だ、幸せってなんだと根本を問うことの重要性を改めて痛感。
また対話によって、全員が無理に仲良くするのではなく、
合わない人とは適切な距離をとることを学ぶこと。
自分の将来のことを考える時間、評価しない時間をもつこと。
いじめの傍観者も加害者であるのか問うこと。
保護者の意識、先生の意識。
いろいろ話しながら見えてきたのは、
結局のところ、いい学校に入っていい会社に入れば幸せという
大きな物語というか信仰があって、そこが変わらないと学校も変わらないだろう
ということ。
しかしながら、学校に対話を導入することを困難さ。
たとえばフラットに先生と生徒が校則について対話できるのか。
先生が答え持っていて、それを生徒が取りに行くという図式を変えられるのか。
むしろ対話がもつ危険性、困難性、疑うことの力、問うことの力こそが、
学校を変えていく力を持つと思います。
先生たちがもっている力を対話の力に受け渡すことができるのか、、
それは、制度的空間としての学校のなかに自由な空間をつくるという矛盾、いわば学校の「内」に学校の「外」をつくるという矛盾を犯すことになるかもしれない。だが、森田伸子がデリダを援用しつつ言うように、それこそ哲学教育が引き受けなければならないアンティノミー(二律背反)なのではないだろうか。そして、そのアンティノミーを引き受けて学校の内に自由な対話的・哲学的探究の空間をつくることによって、逆に学校を変えていく道が開かれるだろう。(中略)こうして哲学対話を推進していく先には、学校の「内」と「外」とが相対的に無意味となる社会が待っているかもしれない。
『哲学対話と教育』「それでも哲学対話を教育に生かす」寺田俊郎(大阪大学出版会)
ご参加ありがとうございました。
毎回有意義な時間だなとしみじみ感じます。
学校現場でも学校の外でも現状をなんとかしたいと思う人たちの対話が増えるよう
続けていきます。