対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

青い卵、青い船。

 

 

 

 

なにはともあれ日記者は日記することで生きのびなければならない.
 
『累成体明寂』黒田夏子
 

 

 

 

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鉄輪温泉渋ノ湯の裏にある、太陽を表した碑 

 

 

 

一週間

 

月曜日

涼しい。雨曇り。

 

ブラジルの熱帯雨林に住むヤノマミ族(人間という意味)には雨の言葉が五十を超えるという。アルマジロの雨、短い雨、紅い花の雨、川を叩く雨、木の匂いの雨、命の雨(霧雨)、木の雨(小雨)、光の雨(豪雨)…。それに比べて時間を表す言葉はない。

 

日本語だとどうだろう。緑雨、白雨、甘雨、月時雨…アマゾンの即物的な表現とは違い情緒があるなあ。

 

 

自分はピンクというか桜色を好み、持ち物や衣服やインテリアなどその色のものがけっこうある。小1くらいの頃、デパートにあったピンク色のリュックが気に入り、とても欲しいと思ったが、これはなんとなく男の自分が使ってはいけないと思い、自制して諦めた記憶がある。ジェンダーというのものは小さい頃から刷り込まれ、内面化されているんだなとその手強さを思う。

 

 

火曜日

夏を思わせる陽射し。

 

鉄輪朝読書ノ会の案内をメール送信する。来月は『朗読者』シュリンクを読む。どんな読書会になるのだろう。参加者の感想が今から楽しみ。

 

 

哲学対話や読書会での対話は時間の制限があるので、どんな状況であろうとも、時間が来れば終わる。それはいつも突然な感じがある。それはとても大きな特徴だ。 でも終わってからも続く内省や対話(inner dialogue)はある。あのひとのあの発言はこうだったんじゃないのかとか、ああいう風に言えば良かったなとか、言い足りなかったこと、別の本を読んでいて別の角度から気づきが促されることもある。だから正確には対話に終わりはないと思うし、そのように開いていたいとも思う。なので対話が終わった後も語りたいことや気づきがあれば、いつでもメールを送っていただければ嬉しい。

 

 

 

水曜日

薄曇り。昼から晴れて、ぐんぐん暑くなった。

 

忘れられない色がある。東京に住んでいた頃広告デザインの仕事をしていて、ある喫茶店を取材したときに、そこはアローカナという珍しい青色をした卵をサンドイッチに使っていて、それを見せてもらった。とても神秘的な青色で人をうっとりとさせるものがあった。同時期にテオ・アンゲロプロスの「ユリシーズの瞳」という映画を見たときに、冒頭青い舟が画面を横切るという力業のシーンがあって、その青色を見たときにアローカナの卵を思い出したものだった。いや、逆だ。アローカナの卵を見たときに、青い船を思い出したのだ。

 

今日は改装中のウカリユハウスの壁・床の業者さんと打合せをした。壁の色は薄いブルーグレーを選んだ。記憶のなかの青い卵と青い船を思い出しながら。どんな仕上がりになるのだろうか楽しみ。

 

 

夜は涼しい。窓を開けると鈴虫の鳴き声が聞こえる。しんみりする。

 

 

六月も終わった。

 

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Ulysses' Gaze 

 

 

 

木曜日

七月のはじまり。下半期か。

 

古楽器によるクラシックを聴きに大分の町へ出かける。大分の人は今でもそうなのか、中心部に出かけることを「大分に行く」という。大分はどこでも大分のはずだが、大分の中の大分があるのだった。

 

生演奏を聴くのは全身的な体験で身体もひとつの楽器であるのか、その響きが空間とともに共振する心地よさがある。となりのおじさんは体でリズムをとっていた。音楽を聴いて癒やされる場合、それは接続なのか断絶なのか。わからない。両方有るような気がする。

 

終わった後はすっかり夜になっていた。iichiko総合文化センターの間接照明の薄暗いライティングはとても雰囲気のあるのもので、演奏会の余韻と相俟って気持ちの良い散会の道行きを示していた。

 

 

 

海のざわめき。天と地とをへだてる曲線。草むらをゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてが我々のうちにさまざまな印象をしずみこませる。そして、突然、こちらの意向とはおよそなんの関わりもなしに、それらの記憶のひとつが我々の外にひろがり、音楽言語で自分を表現する。

 

 

夜の神秘な詩情や、月の光の愛撫をうけた木の葉がいずれからともなく立てるあの千々のささやきのなかに、生きている証しをそっとうかがわせる現とも見えぬ風景、疑えはしないが幻影のような世界は、音楽だけが意のままに喚起する力を持っている。

 

 

クロード・ドビュッシー音楽論集

 

 

 

 

金曜日

 

いつもと違うコースを走る。鉄輪出、亀川経由、別府大学、鉄輪着。途中方向喪失しながらもいいコースを発見した。1時間くらいで丁度良い。すさまじく汗をかく。鉄輪からくだると湿度温度がぐっと上がるような気がする。蒸し風呂のような環境も良い。

 

 

走った後はいつもすじ湯温泉に入っている。すじ湯温泉は石鹸・シャンプーの類いは使用禁止なのだが、今日入るとおっちゃんが石鹸を使っていた。自分の存在に気づくと慌てて泡を流していた。聖域を汚されたような、とても残念な気持ちになった。「禁止」という状況を楽しむこと。温泉という公共の場における、「私」をどこにおくのか。

 

 

「工芸青花」の川瀬敏郎氏のことば

たてはなは「公」であり、なげいれは「私」であり、茶の湯も「私」。茶の湯となげいれを「私」たらしめているのは(公私はハレとケにいいかえられるかもしれません)、「侘び」ではないか、……

 

 

自分の住んでいる住所字名の「ウカリユ」は漢字にすると「兎狩(の)湯」だということを発見した。なぜ兎を狩るのか、そもそもの由来を知りたい。湯が熱すぎて兎が入るとのびるということだったら面白い。

 

 

 

土曜日

対話勉強会。一ヶ月経つのが早い。現在多くの哲学カフェで使われているらしい梶谷ルールの梶谷さんがフェイスブックに寄せた「何を言ってもいい」についての注意喚起の文章について、みなで話し合う。対話内で「問題」や「ハレーション」が起こった時に、それを見逃してしまうことについて、対話はファシリテーターだけでなく、参加者みんなでつくっていくという意識について、対話における強者と弱者について、同質な者同士の集まりは哲学対話であるのかないのか、対話の場においても外の社会と同じ扱いを受けた、聴くこと、考えること、変わること、予防的すぎると哲学対話のテーマから逸れていくのではないのか、どういう工夫がいるのか、見逃す側の論理、ハレモノに触るような扱いはケアと言えるのか行き過ぎではないのか、自分が優位に立っていることがわかっていないこと、自分の立場を可視化するには、ケアの有り様をいろいろ考える、哲学対話には何か「不足」しているものがあるんじゃないのか等々等々等々

 

 

 

少し長いけど。梶谷さんの文章で気に入ったところを引用する。

 

 

私がルールとして「何を言ってもいい」というのを掲げているのは、上のような趣旨を明確に示すためです。またそのさい念頭に置いているのは、私たちが普段いろんなことを気にして思ったことが言えずにいる現状です。私たちは学校でも会社でも、家庭でも友人関係でも、こんなことを言ったら笑われないか、馬鹿にされるのではないか、怒られるのではないか、恥をかくのではないか、変な人だと思われないか、自分の言うことなどつまらないことではないかと思って、自分の考えを言わないようにしています。また私たちはその裏返しで、人に褒めてもられたり評価されるようなことを言うように努めたりします。いずれの場合も、結局は自分が考えていることを言うのではなく、他人の考えや世の常識のようなものに合わせて発言しているだけです。「何を言ってもいい」というルールは、そういうことを気にしなくていいということです。だからこそ「他の人に対して否定的な態度を取らない」というルールがセットになっているのです。

 

このように自分の考えを率直に言えないのは、通常は社会的に弱い立場の人たちです。それは、大人に対する子ども、男性に対する女性、先生に対する生徒、上司に対する部下、学力や学歴が高い人に対してより低い人、知識のある人に対する知識の少ない人、専門家に対する一般の人、健康な人に対する病気や障害を抱えた人などです。こうした人が気兼ねなく話せてこそ、社会の通念や強者の論理を反省し、覆すことができるのであって、それこそが哲学的な態度だと言えます。

また、こうした人たちが率直に話せる場は、実際には社会的に立場の強い人たちにとっても安心して話せる場になります。なぜならそうした人たちは、社会の支配的な価値観を強く内面化して縛られていて、「高く評価されることを言わないといけない」「間違ってはいけない」「優位に立たないといけない」などのプレッシャーを受けていることが多いからです。したがって、誰にも馬鹿にされたり怒られたり恥をかいたりしない場であれば、彼らも相手をことさらに論破したり自分の優位を示すために攻撃的になることなく、率直に話をしていろんな立場の人たちと話すことができます。

 

梶谷真司 Facebookより

 

 

夜はオンラインでシネマ哲学カフェ。今回は是枝裕和監督の「万引き家族」を題材に”人が人を大事にする、人に大事にされるってなんだろうか”について対話する。詳細は開催報告として別に書くが、この映画のもつ「あたたかさ」や「優しさ」「ゆるし」について語れたのは良かった。

 

 

 

日曜日

韓氏意拳の初級稽古会へ行く。5年ぶりくらいだろうか。しばらく来ないうちに鶴崎の公民館がだいぶきれいに改修されていた。昔のぼろい方が雰囲気があって好きだったけど。

 

守師の指導を受ける。韓氏意拳の稽古は始めに言葉がある。というかたくさんの言葉とともに型がある。絶えず流れゆくもののただなかにそれは現れる、から、それに追いつくために、「教える」ということは精妙な言葉を必要とする。武術と武学がともにあるような、私は15年前に尹雄大氏の書いた『FLOW 韓氏意拳の哲学』(冬弓舎)を読んで、この武学を学びたいと思っていたところ、実家の近くで学べることがわかって驚いたものだった。

 

 

 

韓氏意拳は「韓氏意拳とは何か?」という問いの中にしか見出せないもので、外形を紹介して、その上辺を理解し、真似たとしても、それは韓氏意拳ではないし、大事なことは、そういう言い切りや具体性の中にはない。

 

そもそも韓氏意拳が伝えようとしているのは、必勝不敗の技法ではなく、「武学」という哲学であって、だから具体性のある技法はあっても認識が伴わないと使えないし、技法は韓氏意拳が考えている哲学ーーー世界をどのように捉えるかーーーを表す方便にしぎない。

 

『FLOW 韓氏意拳の哲学』尹雄大

 

 

15年ぶりくらいに読み直して、私の対話における基本的な態度、また小説の読み方、世界のあり方が、韓氏意拳の思想の読み方から随分影響を受けていることに気付いたし、稽古のなかでもそれをひしひしと感じて、源流を発見したような嬉しさがあった。

 

韓氏意拳は難しい。その操法は、いまの近代化された体の使い方とは違うから。この「癖」にまず自分が師の指摘を受けながら気付いて修正していかなければならない。簡単ではない。

 

2時間半の稽古は、久しぶりだったこともあり、また韓氏意拳が進化していることもあり、ついていけないような自分の体の重さを感じた。すこし悔しい思いを抱えつつ、また自分の身体と向き合おうと、この武学を言葉とともに深めていきたいと決意したのだった。それは対話の場にも直結するだろうとも。

 

 

稽古後、守師の「才能に頼ると死ぬ」という言葉が、矢継ぎ早に出されたたくさんの言葉のなかで、それだけが強い実感を伴って私のなかに木霊した。

 

 

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