僕が現場と言うのは、
たんに目の前にある場所ということではないのです。
七月のオンライン哲学カフェを開催しました。
今回のテーマは「諦めることとは」についてみなさんと対話しました。
仏教では「諦める」ことがポジティブな意味(明らかにする、理に合わないことを捨てる)に使われているが、オリンピックや太平洋戦争の例をみても、諦めることができずに泥沼にはまっていっている。また個人を例にとっても、諦められずに生き辛さにつながっているのではないかという前置きで対話に入っていきました。
はじめにみなさんに自己紹介ついでに今回のテーマについて聞いてみました。
・何も考えずに参加しました
・諦めを邪魔するものは何だろうかと考えた。それは「意地」ではないのか
・把握する世界観が大きくなって、諦めることが難しくなったのではないか
・他人との比較する機会が多くなっている
・災害の多い日本の無常観と諦めの関係
・自分は過去を何を諦めてきたのかのだろうか。
・どうでもいいことは早めに諦める。ねこの命に関しては悪あがきをする。手を尽くしたい。
それまでにかけてきたコストを鑑みて、諦めない、諦められないという事態が起こることもあれば、そういう合理的な計算ができなくなって、あえて損をしてでも突き進むこともある。気候や天候、コロナ(みんなも我慢している)などによって諦めるという場合、自分だけではないということと不可抗力であるという認識が諦めやすさにつながる。諦めがつく。が、たとえば肉親などが行方不明になって遺体が見つかっていないときには非常に諦めるのが難しい。(区切りをどうつけるのか)
諦める前・諦めるとき・諦めた後
諦めるという行為には、
1. 人事を尽くして天命を待つ態度(受容)
2. 見切る。登山での深追いをやめることなど
があるのではないか。
諦めることで自由になる。
諦めないことで自由になる。
諦めと居直りは違うことを見極める。
戦略的退却。
仏教だけではない、キリスト教に内在する諦めのシステムがある。(神の特別な計らい)
行動自体を目的化すれば、諦めが消える。(負けがない)
緊張をはらんだ諦めとそうでない諦め。
フレームの外を考えるか否か。
↓
キング牧師の言葉。
「信仰とは、階段が全て見通せなくても第一歩を踏み出すことである。」
「諦めること」を考えていくなかで、いつの間にか大きなとば口に立ったところで、
終わりの時間となりました。
いつものように結論めいたものはありませんが、僕自身は対話前と比べて、「諦めること」がこんなに深みがあって、スリリングなものだとは思わず、なんかとても勇気というか元気をもらいました。諦めるとか諦めないとか関係のない世界もあるのかなあと夢想しつつ。
ご参加いただきありがとうございました。
オン哲!7.10