対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

Against the Day / 逆光

 

 

 

 

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2002.10  Seoul 朝の鮮やかな国で

この日通学途中の女子学生のスカートを翻らせた파람 パラム(風)はどこにいったのだろう

 

 

 

 

どの道を行っても道ごとに落日があると知っていて,それを見たいのだかよけたいのだか,逆光の防砂林をぬけて目つぶしを射てくるものにまむかうにつけ背や横をさらすにつけ,白い小さな服はようしゃなく,あるいは惜しみなく彩られた.

 

『累成体明寂』黒田夏子

 

 

 
 

 

一週間

 

 

月曜日

朝から雨。気圧か調子が悪い。夕方から空が晴れてくるに従って心身が恢復してくるのが分かる。

 

 

通販で頼んでいたお皿が笑っちゃうほど割れた状態で届いた。

 

 

以前医療関係者のための哲学カフェを開いたときに知り合ったがん専門のH医師が上梓した本(『がんにはなったが幸せだった』)を献本していただく。H医師からは担当していた或るガン患者の遺した手帳に書かれてある哲学的な文章を読み解いてくれないかと頼まれたことがあり、哲学とも宗教観とも言い難いその内容に僕なりに応えたものがこの本に書いてあるのだった。大分の哲学者と自分が紹介されていて恥ずかしい。

 

 

火曜日

某ラジオ局のディレクター兼プロデューサーの方から、一緒に番組を企画しないかとの相談をいただき、とても嬉しかった。詳細はこれからだが、「読書会」にまつわるものになりそうだ。いただいたメールに大分に荒川洋治を発見したと書かれていて恥ずかしい。というか恐ろしい。

 

自分がこれからやりたいことのリストをノートに50くらい書いているのだけど、ここに書かれてあることは少しづつ実現できていて、「ラジオを作りたい、企画したい」というのもリストにあった。釜ヶ崎の哲学ツーリズム鉄輪の哲学ウォーク国東でのアートカフェ呉の田中小実昌への旅もここに書いていたし、会社を辞めるとか、飼っている猫のオカユちゃんと長く一緒にいるとかも実現できている。

 

「現実」はそれが起こる前は途方もないように思えるのだが、実現してしまうとなんでもない。言葉にして外化してイメージすることで、「現実」のあり方が変わってくる。通路ができる。水先というのだろうか。子どものころ、砂遊びで水の流れを手で掘ってそこに水が流れていくような。ただそれが実現する過程は問わないことが重要だ。そこは予想外なのでスペースを作っておく。それが楽しい。努力とか水滴が石を穿つみたいな頑張りも必要ない。個人的なことを深掘りしていくと、自然と他者や社会につながっていくような流れ。流れること、流れていくこと、詰まりがないことを気をつける。心臓の鼓動はみんな違う。自分の「ペース」でどう生きるのか。そういうのを「経済」とか「愛」とか呼びたいのだ。

 

 

ラジオの企画がどういう形になるのか楽しみである。 

 

 

 

水曜日

朝から蝉の声がすさまじい。夏だなとしみじみ思う。でもまだ午前中の早い時間帯は窓を開けると微かに涼しい風がここ鉄輪では吹いてくる。今私の座っている標高が測れるアプリ「標高ワカール」では、118.10mと出ている。その涼しさもあると思う。

 

 

アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』というタイトルは、小説、映画を問わず優れたタイトル(作品の本質を捉えつつ、キャッチーでもある)の一つだと思うが、これが原題では『TEN LITTLE NIGGERS』であることを知り驚いた。

 

 

走る。日中は暑いので18時くらいから走るも、かなり体力を消耗するようでヘトヘトになっている。

 

 

木曜日 

竹田の菅生にスイートコーンを手に入れるために出かける。市場のようになっている販売所は活気があって楽しかった。熊本やら堺やら県外ナンバーが多かった。みんな出たいのだ。4連休だし。それにしてもトウモロコシ畑が広がる風景の幸福というものがある。それは夏のイメージに直結したなにかだが、迷路のような背の高いトウモロコシ畑の中で迷うという誰の体験か分からない記憶が、忘れていったなにか。

 

 

 

ついにはありがたいことにまったく顔を見せなくなったころ、ヘイノ・ヴァンダージュースは視野の隅の方で、粗面積みの石壁と波打つニレの木の合間にきらきらと光る翼の付いた物体が見えたような気がしたことが一度か二度あった。そして奇妙なことに、それが一八九三年以来行方不明になっていた自分の魂なのかもしれないと思えてきたのだった。

 

トマス・ピンチョン『逆光』

 

 

 

大暑の日にスイートコーンを食べる。甘くみずみずしく。

 

 

図書館でマーク・Z・ダニエレブスキーという作家の書いた『紙葉の家』を借りる。奇書。冒頭にかかげられた言葉は「これはあんた向きじゃない。」だった。

 

 

 

金曜日

夜はオンラインでソーシャルカフェなるものを開いてみる。テーマは「オリンピックは必要か?」。意識していなかったのだが、この会の開催時間とオリンピックの開催時間が同じで、あきらかにカウンターだったこと。意識していないことが逆に恐ろしいわ。テレビがないので、オリンピックの盛り上がりを感じることはできないが、日本がメダルを取ると嬉しいのはなんでだろう。いや別に嬉しくはないのか。嬉しい感じがするだけで。

 

 

 

 

 

わたしもうやめた 世界征服やめた

今日のごはん 考えるのでせいいっぱい

 

 

わたしもうやめた 破壊工作やめた

妙な予感 振り払うのでせいいっぱい

もうやめた むだな抵抗やめた

 

 

「バーモント・キス」相対性理論

 

 

 

 

土曜日 

昼過ぎに哲学カフェ界隈では有名?な方の主催する哲学カフェにオンラインで参加する。ファシリテーションについて学びを得たいため。長い常連さんが多いようで場が成熟、完成されていてルール説明も少なく進んでいった。対話に「不安定」なところがほとんどないが、それが良いことか悪いことか分からない。ファシリテーターはメモも取らずに、対話の流れをきれいに整理していった、それは簡単なことではないが、それが対話にとって良いことか悪いことか分からない。

 

ZOOMでの画面越し、ある参加者の後ろにある白いカーテンが逆光に照り輝きながら始終風にやさしくたなびいていて、その場の文脈に関係のない、こういうものに私は私だけはふと魅せられてしまうのだった。

 

友人の子どもが、サッカーの試合中、目の前に蝶々がヒラヒラと舞っているのを見て試合に出ているのを忘れて、その蝶々を追いかけてコートを外れて消えていったという話がいつも好きなのであった。

 

 

 

 

欲望から出発するとは。 大野一雄さんは、お爺さんであってもとにかく貴婦人の格好をしたかった。日本のお爺さんがヨーロッパの貴婦人のドレスを着てヨタヨタと歩く。ふつうだったら成立しないし美しくもない。バックグランドがなく身ひとつで自分の固有の世界を確立する。それがどれほど大変なことか大野さんが世界的に成功したとしても、私からみればまだまだ足りない。彼のしてきたことにくらべれば、とうてい報われたとは言えない。どうしてその固有の世界が成立したか。苦労もなくただ奇異な服装をするのとはわけが違う。それは大野さんが身体そのものにおいて汗水を流して労働したから成立したのだと思う。宮大工のように何かおおいなるものに仕えたのだと思う。こういう苦労をわざわざする人はまずいない。お爺さんであること=翁の思想。そして女装という性倒錯のもっとも深い意味合い。その芸能の原点を、結果として日本の霊的道筋を、生成の層から蘇らせたと、私は思っている私にとって「事物の内側を旅する」とはこういうことだ。労苦をはらわなければ得られない世界がある。それは理解とか「わかる」とかとは別世界の出来事だ伝統を守ろうとか、そんなことは考えもしなかったろう。ただ自分のやむにやまれぬ情動をどうにかしたかった。形にしたかった。形にすれば他者と出会えるからね。その垂直的な欲望だけで踊ったのだと思う。やってみればわかるけれど、さいごまで残るのはそれしかない。

 

舞踏家 最上和子 Twitterより

 

 

 

 

 

日曜日

午前中、別府鉄輪朝読書ノ会をここちカフェむすびのにて開催する。ドイツ文学の『朗読者』をみんなと読んだ。ドイツも日本も先の大戦では敗北国だけど、その処理の仕方は違う。ドイツは今でもナチスに関わった人間を裁き続けている。被告人が90歳を超えようとも。日本は戦犯になっても釈放され総理大臣になる者もいる。後者もどうかと思うが、前者の感覚には戸惑いを覚える。『朗読者』を読むことは難しくない。でも読み終わってからが難しい。安易な解答は許されず問いは問いのまま宙づりのままだ。

 

 

 

 

小説というものは、読者を癒すよりは危機へ誘い出してほしいと思う。

 

池澤夏樹