対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

Never say never again / 次はない、なんて言わないで

 

 

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2002.10 Seoul  知らない土地に見覚えのある雨が降った

 

 

 

 

偉大な思想家の思索の全貌を薄く広く要約的に紹介するだけの「入門書」は、結局、何に対しても読者を「入門」させてくれない。

 

神学者 山本芳久

 

 

 

 

月曜日

昨日の読書会に参加された方から、1日置いて考えが変わったことのメールをいただく。小説は読んで終わりではなく、読み終わってから、私を手放さず、問い続け考え続けさせるものがある。昨日扱った『朗読者』はそういう作品だった。鉄輪で開催している読書会では、簡単に楽しく読めて消費されてしまうような小説は選ばないことにしている。

 

 

冒頭に挙げた神学者山本氏の「真に大切なのは、批判的に書物を読むことではなく、むしろ優れた書物によって自らが批判されることではないか。」という言葉を思い出した。

 

 

 

S様


昨日はお世話になりました。一夜明けて、やはり、ベルクはハンナの自死への気持ちにストップをかけるべきだったという思いに至り、珍しくご返信させていただきます。彼はハンナの再生に手を貸す手段方策を持っていたはず、そのことに情熱をそそぐべきだったとの感想を読書会を終わってふと思い、表明させていただきました。失礼します。

F

 

 

 

 

太陽の日差しがカッと照りつける。このあたりから八月いっぱいまで、戦争文学を読むモードに毎年入る。今年は梅崎春生の『桜島・日の果て・幻化』を読む。鉄輪の読書会でもとりあげる。毎年八月の参加者は少ない傾向にあるのが残念だが、今年はどうだろう。

 

 

 

火曜日

ある番組でプロのモノマネ芸人が集まって、ある中学校に潜入して先生のモノマネをしたら生徒は死ぬほどウケるのかという企画をやっていて、ようつべにころがっていたのでたまたま見た。プロたちがもの凄い精度で、それぞれの先生のモノマネを披露する。生徒たちは死ぬほど笑い転げる。でも中に一人男の子だけが泣いている。それを芸人たちは茶化す。本人もなんで涙するのかわからないので困惑しながら泣いている。これはプロの技芸のあまりの凄まじさに笑うより言葉を失い感動したのだと思う。あるいはその奉仕の思いに。そういう感性はいいな。鬼気迫るモノマネは本人以上に本人だった。

 

 

 

週一回、別府市立の図書館に通う。残念ながら、ここで借りたい本は少なくて他館に頼んだものをここに届けて利用することが多い。ここは除籍本を譲り受けることができて一定期間専用の棚に並びおそらくその後廃棄されるのだが、この棚を眺めるのが好きで、もう「賞味期限」が切れ「用」を失った本でも、惹かれるものはあり、20年前のハワイの地球の歩き方とか、河合隼雄の解説する25年前の不登校の事例集とか、ほとんど聞いたことのない草木の話が延々と綴られているエッセイとか、なかなか味わい深く、そっと持って帰る。

 

 

 

ながしらぐみ

 

野沢のKさんに聞いたグミには、ヤマグミ、ナシグミ、ナアシラグミの三つがあった。ヤマグミはアキグミ、ナシグミはオオズミ、ナアシラグミがナツグミだ。

河野さんによると、

「庭に植えるナアシラグミはナツグミともいう。渋いグミだ。これよか大きいビックリグミってうのを、よそから枝もらってきてさしどめ(さし木)したら、よくついてたんとなる。坪山の久太郎さん、これを田のクロに植えた。道傍の畦に植えすかと思ったが、子供にとられると思って奥手に植えたら、学校の子供、行き帰りにとり寄って田踏みつぶした。『失敗した。道の方に植えりゃよかった。どうせとられんなら』とかまけた(こぼした)」と。

 

「草木ノート」宇都宮貞子

 

 

 

知らない日本語がたくさんあるのがうれしい。図書館にもある自分だけの出会いの物語。

 

 

水曜日

高気圧が張り出すと心身の調子が良い。 昔標高が800mくらいのところにある町に住んでいた時は四六時中調子が悪かったのは、たぶん気圧の影響じゃないのかと今は考えている。下界に降りると心身がホッとしていたのを思い出す。

 

 

走った。夕暮れ時をねらって走るも暑いのに変わりはない。大量に汗をかいて、すじ湯にざんぶと入るのが気持ちいい。汗をかいた後はひんやりする。 

 

 

すこしずつ『失われた時を求めて』を読む。プルーストを読む生活。

 

 

回想の建築、薄い陰影、微かな香りのなかに、突如として「巨大な」ものがあらわれるのを愉しむ。

 

 

 

私は自分をつまらないもの、偶発的なもの、死すべきものと感じることをすでにやめていた。一体どこから私にやってくることができたのか、この力強いよろこびは?

 

 

 

 

長い時にわたって、私が夜なかに目をさまして、コンブレーを追想していたときに、そこから私に浮かびあがって見えたのは、そんなふうに、濃い闇のまんなかに切りとられた一種の光った断面でしかなく、それは燃え上がるベンガル花火か、それとも何か電気による照明のようなものが、一つの建物に反射し、建物の他の部分は夜のなかに沈んだままでありながら、ある部分だけが切りはなされて光るあの断面に似ていたのであって、その断面のかなりひろい底辺には、小さなサロン、食堂、私の悲しみの意識しない作者であるスワン氏がやってくる暗い小道に通じる口、じつに残酷にそびえている階段の最初の踏段にあゆみだすために私が出てゆく玄関があり、その階段は、それだけで、このいびつなピラミッド形の光る断面のひどくせまい胴体をなしていた、そしてその断面の頂点には、私の寝室があり、その寝とことでいえば舞台装置、いつもおなじ時刻の場面が見え、周囲にあったはずのすべてのものから孤立し、それだけ暗闇に浮き出していた舞台装置、私が演じる着がえのドラマに最小限必要な(たとえば古い戯曲の冒頭に、地方興行用に指示されているのを見かけるあの書割のような)舞台装置であって、あたかもコンブレーはせまい階段でつながれた二つの階からしかなりたっていなくて、そこには夕方の七時しかなかったかのようであった。

 

 

失われた時を求めて 第一篇 スワン家のほうへ』

マルセル・プルースト 井上究一郎訳(ちくま文庫

 

 

 

長い長い一文。読む刹那ちょっと何言ってるかわかんない。でも幻灯機の影絵のように、朧げながら見えてくるものがある。書くという概念が、読むという概念が、変更を迫られる。

 

 

 

木曜日

暑い。猫のオカユが日中はダレている。猫は涼しいところを見つけるのが得意とは言うが、涼しいところが見つからないのか、いろんな場所で寝ていて、難民化している。かといってエアコンとか扇風機は苦手なようだ。

 

 

夜公園のそばを歩いていると家族が花火をしていたのが見えた。花火って、こんなにも綺麗だったのかと思った。花火は自分でするより、誰かがしているのを遠くから見ている方がいいのかもしれない。

 

 

 

金曜日

ラジオは直接魂に語りかけるような直裁性があると思う。それは純粋に「肉声」であるし、その人の文体であるし、それが私のインナーボイスと対話する。無意識の生活が動き始める。そして何より音楽との限りない親和性がある。

 

 

 

強烈な音楽がかかり 生の意味を知るような時 誘惑は香水のように 摩天楼の雪を融かす力のように強く 

 

「ある光」小沢健二

 

 

 

 

 

土曜日

7月が終わる。

 

 

この5月からの3ヶ月間は、ゆっくりした、ぼーとした、ほとんど好きなことしかしなかった。8月からは少しずつ動き始める。

 

 

東京のコロナ感染者数が4,000人を超えた。

7月が終わった。

 

 

 

日曜日

八月が始まる。カレンダーをめくる(家に3種類ある)、デート印をAUGに巻く。

夏のなにかへの期待がする。雲が高く積もり上がるように。

今日は涼しかった。雨が降った。雨音を久しぶりに聞いた。

 

 

部屋を片付けていたら昔見た山海塾のチラシが出てくる。

今となっては山海塾の舞踏は舞踏ではなくダンスだと思った。

「簡単な」方へ逝ってしまった。

 

 

素麺に飽きたので、奄美大島の油ぞうめんというのを作ってみる。名前はなかなか暑苦しいが、黒胡椒などをきかせてニンニクもあり、夏バテにも良さそうだ。

 

 

遠くで花火が打ち上げられている音が聞こえた。八月への祝砲のよう。

 

 

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