パラム 風。
日常、飯をたべたり、歩いたりするとき以外、私は風景ばかりみてくらした。パンドホテルとサムソンビルの間の広い道路のとば口がお気に入りだった。サムソンビルと市庁の間を鍾路の方へおちる少路から、この広い道路へ風が吹き抜けてくると私の胸はふるえた。ほんとは、風はこの少路からやってくるのではない。市庁前の広場から、アメリカの宇宙飛行士を迎えた広場からやってくるのだ。小路からくるとすれば、風はサムソンビルの角で左に直角に曲がらなければならないのだから。しかし、私の頭のなかではこの風はいつも小路から吹いてくる。広い道路をゼリー状の風が移動するのがみえる。書きながら胸がふるえる。全く変哲もない通りにすぎないのだが。
『私の朝鮮語小辞典』長璋吉
一週間
月曜日
小峠英二と小熊英二を堂々と間違えて表記している者がいた。自分も同じに見えてきた。
どくだみ野草茶を沸かす。一瞬紅茶と間違えるくらいの香ばしさ。
走った。曇りの日を狙ったが湿度が高くなかなかキツいものがある。でも走った後は気持ちがいい。
中上健次生誕の日。夏に生まれ夏に死んだ男。日本最後の小説家。小説自体も夏芙蓉や肉体労働に汗を流す秋幸のイメージもあって夏の印象が強い。もう十五年くらい前になるが、新宮にある中上健次の墓を訪れ、熊野古道を歩いた。霊園は広く、なかなか見つからなかった。電車の時間も迫っていて、もう諦めようと思ったときに見つかった。それも夏だった。最近になって宇多田ヒカルが中上健次が好きなことを知ってうれしくなった。
日を受けて幻のように光る草むらを背にして通りの方へ戻り、一瞬、その草の葉が昔、土方をしながら眼にした時のものだった気がして、秋幸の体の中に音楽のように鳴るものがある。
『地の果て 至上の時』中上健次
火曜日
鉄輪歴史講座が近所の公民館である。語りは郷土史家の永野康洋さん。演題は「鉄輪・鶴見の歴史とブラタモリの裏側」。さすがに平日日中の開催、ご老人ばかりで若い部類に入るのは自分だけだった。
別府広域ではなくピンポイントで鉄輪について話してくれるのは嬉しい。鉄輪には二つの断層が交わるところがある。あんな小さいエリアでそれぞれ泉質の違う温泉が無数に湧き出ているワンダーランドだ。
それにしても強烈な夏日であった。
帰りに公民館の近くにある火男火売(ほのおほのめ)神社に参拝した。炎天下の日中に境内には誰一人いなかったが、手水舎には清冽な水が絶えず流れ水盤は水が堰を切って溢れ出していて参拝者を待っていた。社務所には白い服を着た宮司らしき方がいて机仕事を黙々としていた。お参りして帰る。正月以来だった。
夜はサッカーを観戦しようと思ったが、大分では放映されないことがわかりショックを受ける。大分には民放が3つしかない。自分が高校生くらいのときまで2つだった。宮崎は今でも2つなんじゃないだろうか。地方の格差。ラジオで試合を「聴く」。想像で補完するのもなかなかよい。試合を聞きながら部屋の掃除などする。負けた。
水曜日
朝かるく雨が降った。少し涼しい。
「キャレル」という言葉を覚える。図書館で見るあれのこと。
昔10年以上住んでいた三鷹をぐるり散策して写しているだけの動画があって引き込まれるように見る。立ち並ぶ店に変化はあっても、そこかしこの街の出で立ち、空気感は変わらず、言いようのない「うわっ」とした感情に襲われる。懐かしさを超えた、現存在そのものもに訴えかける何か。プルーストはこの「うわっ」するものと真っ向から対峙したのだろう。
木曜日
昨晩はNHKで「映像の世紀」の再放送があったようだ。リアルタイムで放送を見たのはたしか映画生誕100年を記念してのことだと思うから1995年のことだと思う。1回目は冒頭リュミエール兄弟の「工場の出口」から始まったと思う。オープンニングの加古隆の音楽に合わせてスクロールされる映像がすばらしく興奮したのを覚えている。戦争の世紀と映像の世紀は重なる。この時期に放映することには意義がある。見れないけど。
金曜日
サッカーは3位決定戦でメキシコに負けた。 監督の方が選手に追いついていないのではないのか。今や選手たちの多くは欧米で揉まれ、研鑽を重ねているが日本の監督は日本のなかでしか思考していない。
プルーストを読むことは読書の意味を変えることに他ならない。他の小説を読む際も、すでに作品との関わり方が変わっているのを感じる。なんというのか「私」というものの位置が違っていて、「世界」という生地が「私」というのを存在させる根拠となっているというのではなく、「私」という生地と「世界」という生地が交わるその交点の表面のことを「小説」あるいは「芸術」と呼ぶ(読む)みたいな。それを空間感情と呼んでも良い。時間とは空間のことだったと体感すること。
土曜日
オンラインで対話勉強会の日。今日のテーマは梶谷ルールの「知識ではなく、自分の経験にそくして話す」について討議する。これは一概には言えないルールで、経験への囚われもまた有害だし、知識のない対話は遠くへ行けない。知識自慢は退屈にしても。その場に生きて、対話を活性化させる知識とは。
それにしても参加者がそれぞれ抱く「哲学対話」のイメージが違うのが興味深い。理想も違うし、変遷の仕方も違う。〈対話〉の形もたくさんある。哲学カフェ、哲学対話、アサーション、ワールドカフェ、オープン・ダイアローグ、ソクラティック・ダイアローグ、1on1ミーティング、エンカウンター・グループ、非構成ダイアローグ等々。これらに共通するところ、違うところ。対話の定義というかイメージが違うのも興味深い。
哲学カフェ、哲学対話は「目的とルールはあるけど、設計がない」。これが自分が惹かれるところだと思う。少し小説のありかたにも似ている。
いつも勉強になる2時間。ありがとうございました。
日曜日
集英社の戦争×文学のアンソロジーシリーズを集中的に読む。どの作品もすばらしい。たとえば「ヒロシマ・ナガサキ」篇に収められている水上勉の『金槌の話』は赤坂のビルとビルの狭い谷間に十年前落っことした金槌を探す話だが、そこまでに至る地元福井のゲンパツで働く良作さんとの電話のやりとり、たとえば風光明媚な海岸にゲロが7つ並んで吐き捨てられている光景(ゲンパツの影響だろうと匂わせる)など素晴らしいのだった。
「わしにも犯人の見当はつかんがのう、けんどなぜ、道路のまん中に、七つのゲロを吐いたんかのう。わしらのバスの運転手は、ちょっと速度をおとして、そいつをわしらに見せよったがのう。七つも一人が吐くとは思えんから、やっぱり、これは七人がならんでゲロを吐いたにちがいないがのう。いったい、七人が朝ま早ようにならんで、こんな道路でゲロを吐くようなことが考えられるかのう、ツトムさん」
「いっぺんねきを通ったら、そのビルのスキマをのぞいてきてくれんかのお」
『金槌の話』水上勉
電話といえば、小島信夫と森敦の電話も素晴らしいが、この水上勉と良作さんの電話も負けず劣らず素晴らしいのだった。
昼過ぎカフェフィロさん主催のテツトーク!vol.1「学校での哲学対話」にオンラインで参加する。私は学校現場での哲学対話を開催した経験がない(経験したい)のだが、想定しうるに難しい側面もあるだろうと思われるので、いくつか質問をした。以下自分がした質問内容。
Q1 大人の哲学カフェの場合では匿名性やフラットな関係性で行われると思うのですが、学校で行う場合、クラスでの人間関係とかが対話に影響を及ぼしたりしませんか?対話の安心・安全を学校の場でどのように実現していますか?
Q2 学校の授業内での開催ですと評価というものをしないといけないと思いますが、どう評価、成績に反映していますか?また生徒が「良い子」として振舞ったり発言したりしませんか?またあまり発言しない生徒にどう関わっていますか?
パネリストの方々の回答として印象的だったのは、対話を通して生徒間の人間関係が変わるということだった。そこは希望がもてた。「良い子」として振る舞う問題については最初の段階でダメな事例として示すことで釘をさすようだった。評価の問題はやはり難しいとのこと。優劣をつけると哲学対話自体成り立たなくなるから。
主題とは離れるが、今学校は安全のため閉鎖的になっていて内と外の交流がないことも一つ問題で、たとえば哲学おじさん、ソクラテスおじさんのような人が校舎内をうろついて生徒をつかまえて問答したり、相談にのったりしてもいいみたいな話があり、ああ哲学おじさんをやってみたいと思うのだった。(セザンヌが絵を描くために辺りをうろついていたら浮浪者と間違えられて子どもに石を投げられていたというエピソードを同時に思い出したりもしたが)
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夜は台風9号が鹿児島から近づいてきて、大風大雨。オカユちゃんが帰ってきてなくて、何度も探しにいくも現れず。オカユちゃーん!と呼びかけるのだが、激しい雨音でおそらく聞こえてないのだと思う。諦めて帰って寝た。深夜二時半ごろベランダからずぶ濡れになって現れ、にゃあにゃあと泣きながら無事帰還したのだった。