対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

Black girl combing her hair

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2002.10 Seoul  未知の国の朝の出勤風景のなかでわたしは彼らと同じ方向を歩いた。

 

 

 

行動の中心であるべきさまざまな人物が、諸事物が出現する多元的な質の差異のうちに入り込み、それらの事物と相互に浸透し始めるような世界は、笑いに満ちている。

 

小津安二郎の家』前田英樹

 

 

 

 

 

一週間(8.16-22)

 

 

 

月曜日

雨がつづく。誰のためだか分からない雨がつづく。 

 

 

プルーストを読む生活。とつぜんグッとくるような描写に出くわす。これがたまらない。

 

 

 

下働の女中がーあたかも真実の勝利を対照的に一段と目立たせる誤謬のように、フランソワーズの優越さを自分ではそれと知らずにひきたたせながらーママの言葉によればお湯にすぎないコーヒーをいれ、ついで私たちの各部屋にぬるま湯とさえもいえないお湯をもってあがってくるあいだに、私はすでに本を手にして私の部屋でベッドに寝ころんでいたが、その部屋は、透き通ってはかなく消えそうな内部の涼しさを、ほとんどとじた鎧戸のそとの午後の太陽から、ふるえながらまもっていた、その鎧戸のところでは、それでも日ざしの反映が、その黄色いつばさをなかに入れる道をやっと見つけ、鎧戸の桟と窓ガラスとのあいだの片すみに、まるで羽を休めている蝶のように、じっととまっていた。本を読むのにやっとのあかるさであった、そしてそとのすばらしい光の感覚は、ラ・キュール通でカミュが埃だらけの箱をたたく音からしか私につたえられなかった(カミュはフランソワーズから、私の叔母が「休息していない」こと、音を立ててもいいことを知らされていた)、しかしその音は、暑い天候のときに特有のよく反響する空気にはねかえりながら、真赤な火花の星屑を遠方までとびちらせているようだった、それからまた、そとのすばらしい光の感覚は、私の目のまえで、小さな楽団を組んで、夏の室内楽のようなものを演奏している蠅たちによってしかつたえられないこともあった、この蠅の音楽は、人間がうたう音楽の一節 ー好季節に偶然きいたのが、つぎにきくときにその好季節を思いださせるー のように光の感覚を呼びおこすのではなくて、もっと必然的な一つの絆で夏にむすびついていて、快晴の日々から生まれ、そうした日々とともにしかふたたび生まれることはなく、そうした日々の本質の少量をふくんでいるのであって、われわれの記憶に単に夏の映像を呼びさますだけではなく、夏が帰ってきたことを、夏が実際に目のまえにあって、あたりをとりまき、直接に近づきうることを確証するものなのである。

 

失われた時を求めて Ⅰ 』第一篇 スワン家のほうへ 第一部 コンブレー

マルセル・プルースト 井上究一郎 訳(ちくま文庫

 

 

 

 

 

この一文一文の長さよ。複数の時制が混じりあって記憶の様々な層が一文のなかに華やかと言いたくなるほどに振り蒔かれていて、唐突に否定形が入ったり、現実と願望があったり、意識の流れとはまた違うエクリチュールの快楽がある。

 

 

 

 

ところが、ある地点に辿り着くと、不意に一挙に霧が晴れるようにしてくっきりとした風景が、変転を重ねながらも目の前に浮かび上がり、それまでの難路の労苦を癒してくれると同時に、ぐっと前進に弾みがつき、歩行が楽になる。

 

平岡篤頼路面電車」あとがき

 

 

 

 

火曜日

雨がつづく。カエルが家の壁に張り付いていた。ご機嫌だ。

 

 

注文していたサイドテーブルが届く。

短いネジと長いネジを使って、自分で組み立てる方式のものなのだが、

取説には短いネジと長いネジを間違わないで下さいと書いてあり、

この両者のネジの長さの違いが微妙な程なのだけど、

間違えるなよというのが前振りだったわけでもないが間違えてしまい、

長いネジがテーブルの天板を突き抜けてしまった。

間違えるとどんな目に合うかまで書いてくれるとよかった。

 

 

 

水曜日

雨が続く。

 

 

 事故物件を紹介するサイトの、ある事故物件にこんなコメントが書かれていた。

  • 心理的瑕疵あり。女性の留学生入居後、現れた憑依される容疑だ。最後に先生を見つけた法師、そしてその学生も換えた住所、ことは終わった。

     

翻訳機による直訳体のような感じで文意が通じないところが多いが、物語が生まれる瞬間を捉えている。 

 

 

 

木曜日

少し晴れた。

 

Google Scolar という学術論文を中心に検索できるエンジンを知った。サブタイトルが「巨人の肩にのって」とある。野球の巨人とは関係ない。そう考えると、チーム名を「巨人」とした感覚について思う。

 

 

アウトプットはインプットの5倍以上の負荷はあると思うが、マゾヒズム的にここに快楽を見出したい。

 

 

金曜日

少し晴れた。湿度は高い。

 

 

毎日大分のコロナ感染者の最高数値が更新される。カミュの『ペスト』のように或る日突然消えてカタルシスが訪れたらなと無力な夢想をする。

 

 

なんにせよ企画を考えるときは「この程度でよい」というふうな考え方はできない。予算があろうとなかろうとある一定以上のクオリティを出さなければ関わる意味がない。

 

 

 

 

かれらがその後を生きのびることができたのは、六十八年が理論だけではなくて詩をもっていたからだと、といわれよう。

 

カフカ 夜の時間』高橋悠治

 

 

 

 

 

 

 

土曜日

午前中は先生に質問をする。質問って、相手に分かるように準備するとその時点で答えがわかったりする不思議さ。問いの中に既に解が潜んでいる。

 

 

 

 

この野原が道に向って両方からゆっくり降りて来る形で低い丘陵に囲まれていて森もあることまでがそこの道を歩いている男の都合を考えてのことだったかどうかは解らない。その方々に森が見えるだけでなくて一本立ちの大木が道に影を投げていることもあってその下を通る時に男は森の中にいることを思った。

 

『一人旅』吉田健一

 

 

 

 

音というしずくに内側からうつる世界のなかのものと人間。だが、音がうつしているのは、それだけではなかった。


音がめざめる前の音は何だろう。音というこの空間はどこからでてくるのだろう。見えない世界、音の裏側にある何もふくんでいない空間、要素をもたない空の集合。そこから音がひらくとき、それは窓になって、世界と世界でない場所の間にひらく。

 


カフカ 夜の時間』高橋悠治

 

 

 

 

 

夜はオンラインでソーシャール・カフェを開催する。

テーマは「幽霊」について。

幽霊という存在をそもそも認めるのかどうかというところの議論は置いたままで、

進めていったのが面白かった。

幽霊を見たけど信じていない、幽霊を見ていないけど信じている、

世界の原理のなかに幽霊はいるのかいないのか。

死者と幽霊の違いは?

 

 

なんだか疲れていて、ニンニクオニオンベーコン・コンソメスープを作って寝たら、ずいぶん回復した。ここ最近の湿気にやられているのかもしれない。 大学のオンライン受講生も体調を崩している人が多い。

 

 

 

日曜日

朝は少し眠たかったけど、オンラインで本読みに与ふる時間を開催する。

私は図書館で借りた、イーハトーブ温泉学』岡村民夫(みすず書房を読む。

宮沢賢治の文学を「温泉の文学」として読もうとする試みでたいへん刺激的だ。

 

目次をいくつか抜き出してみる。

 

 

賢治と湯治 温泉のフォークロア 温泉の地学 温泉鉄道の夜 観光的想像力 リゾートとしての「イギリス海岸」 ランドスケープデザイナー 温泉遠足の系譜学 ほとばしる温泉的想像力 温泉の訣れ 未来形のノスタルジー サウイフ温泉ニワタシハナリタイ 究極の霊泉セラピー

 

 

 

大分経済の中心、百貨店のトキハでクラスターが起きたことを知る。

本丸が落ちた感。

 

 

 

夕方は三田文學主催で小説家吉村萬壱先生のオンラインで小説の話を聞く。テーマは「小説を書く生活とは。」。吉村先生の話は数年前別府大学で開催された文学イベント以来で、今回もたいへん知的な刺激に充ちた話だった。

 

メモした言葉たち

破獄した男が牢獄に毎日味噌汁をかけていったように”現実”というものに自分の言葉をかけていくという感覚、絞り出さないと出てこないものがある、絶望が希望になるときがある、ハイパーグラフィアみたいな、垂れ流していく、”男”という淀みになる、奈良美智のあの少女はすべての世界の扉を開く鍵である、小説を書き始めるときはまず小説って何だっかなから始める、とりあえず何かを描写してみて、すごく嬉しくなってもっと書こうと思う、手を伸ばしていくと違う手触りのものに触れる、訳し直しではなく訳し重ねている、途中でなにかにすがりつきたくなるところを縋り付かない等々

 

最後に書きあぐねている人たちに向けて、吉村さんはこう言った。

 

 

自分の肉筆文字を好きになってください。そういう訓練をしてください。

吉村萬壱

 

 

 

 

書くという行為はフィジカルに属するのだと改めて思った。頭が導くのではなくて、手が導く。画家のようでもある。

 

 

 

 

「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも。まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。

 

中井久夫