対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

もうギターは聞こえない

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2002.10 Seoul 屈曲し続ける迷路のような路地を疲れを知らぬまま歩きに歩いた


 

 

 

 

すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だと思う。

 

『春宵十話』岡潔

 

 

 

 

一週間 8.23-29

 

 

月曜日

吉村萬壱先生とツイッターでやりとりする。別府にまた行きたいという言葉をいただいて、コロナが落ち着いたら何か企画したいなと思った。

 

 

ころがっていた映画「ゆきゆきて神軍」を見る。もう6回目くらいだろうか。見るたびに突っ込みどころ満載でゲラゲラ笑ってしまう。究極の緊張が笑いを生むという。でも狂っているのは奥崎ではなく、我々社会の側なのだと今では思う。

 

 

壇蜜さんのラジオが好きでよく聴いている。声のまろやかさと文学的あまりに文学的な会話、そして語彙の豊かさに癒されもする。「言祝ぐ(ことほぐ)」という言葉を普通の会話のなかで自然に使われたのを聞いたことがない。

 

 

 

火曜日

生涯教育の学習をしているときに教授が紹介してくれた動画があって、それは30年くらい前のもののVTRでぼろぼろなのだけど、北九州の穴生公民館で開かれている「青春学校」というもので、それは戦後、貧困などの理由で満足に教育を受けられず、日本語の読み書きができないハルモニたちが主役で、老年になって日本語を学ぼうとする彼女ら、小学生をやり直す彼女らを追ったドキュメンタリーで、オンラインの授業中なのに涙がとまらなかった。また彼女らを支援するボランティアの若い学生たちも、なぜハルモニはこんなに学ぶのかということを学ぶのだった。 

 

ブラジルの教育学者フレイレ(識字教育者でもあった)の「意識化と対等な対話」やオルテガの「永遠の微調整」といった言葉が飛び交う生涯学習論が自分としては一番興奮する。自分の行っている哲学対話や読書会もまた民主主義の学校として、寛容な社会を築くための中間団体として永遠の微調整を行っているのだという自負をもて。

 

 

北九州の工藤会のトップに死刑判決が出たとの報。

 

 

哲学者ジャン・リュック・ナンシーが死んだとの報。人は死んでも言葉は残る。棚に並んでいる『無為の共同体』を久しぶりに取り出してみる。

 

かろうじて理解できる箇所を抜き出してみようとするも、まだ自分には早すぎてやめた。積読の棚にそっと戻した。

 

 

 

水曜日

晴れた。暑かった。久しぶりに蝉の声を聞いた。車に乗ると車内がむわっとして、久しく忘れていた夏の鬱陶しさを思いだした。

 

 

先日のソーシャルカフェで20代の頃、友達と青木ヶ原の樹海に遊びに行った話。20代前半の頃は、明日富士山行こうかとぱっと思いついたら、友人に話して特に目的もなく、ぱっと車を借りて出かけていった。今はこんな軽さはない。お金は20代の頃よりあるはずだが、軽さはどんどん失ってしまっている。どこそこに行きたいという気持ちはあっても、実際に軽く行ってみるということが少なくなった。それはコロナとは関係ない。

 

 

髪を切った。髪を切るって切ったときが完成形なのだろうか。僕はその新しい髪型に慣れるのに1週間くらいかかり、鏡の中のイマジナリーとしっくりくるそのころに髪型が完成すると思っている。

 

 

ブックオフで鎌田正著、大修館書店の「新漢語林 第二版」を220円で購入する。状態も良く、書き込みもなく、なんでこんなに安いのか分からない。僕はけっこう漢字力には自信があるのだが、こういったのは読めない。レファレンス演習での事前課題の一つ。

 

「満天星」「酸漿」「蘿蔔」「紙魚

 

最後は本好きなら知っているかも。

 

 

 

 

 

木曜日 

夏。暑さ。

 

 

図書館へ調べものと頼んでいた書籍を受け取りにいく。

 

 

別府温泉与謝野晶子の歌碑があるというが調べても調べても分からない。司書さんに頼んでいろんな資料を出してもらった。スクラップ・ブックに別府市内の歌碑を写真にまとめて貼り付けてあるものまで。でも与謝野晶子の歌碑はなかった。

 

 

結局別府温泉(竹瓦温泉)周辺を歩いてみることにした。風俗街でもあるこの周辺は路地が毛細欠陥のようになっていて魅力的だが、与謝野晶子の碑が似合う場所ではない。

 

それとは別に別府について書いた織田作之助徳田秋声についての流川文学を記念する碑があった。ずいぶん隅に追いやられているような感じだった。そのことをツイートしたら、ずいぶんバズってしまった。文アル(文豪アルケミスト)というゲームを愛好する方々のようだった。知らずに聖地を紹介してしまったかもしれない。

 

 

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金曜日

夏、暑さ、クーラー、氷。

 

麦茶に氷を入れると急激な温度変化にピキッという音がなる。夏の音。

 

 

ツイッターを見ていたら、ある小説家が自分の作品の書評に対して抗議していた。その作品もその書評も読んでいないのだが、自分の作品の要約、あらすじ紹介に間違いがあるとのことで怒っているようだ。作家はあらすじは正確に、批評はご自由にと考えていて、評者はあらすじも批評も自由であると考えている、その違いのよう。

 

事実(あらすじ、要約)の部分と、感想をきちんと分けるのは基本だとしても、小説においてこれがどれほど可能なのか分からないし、長い時間をかけて読書会をしている自分にとっては、あらすじは全然重要ではない。

 

たぶん、たぶんだが作家は評者が自分の作品を斜め読みされた(きちんと読まれていない不誠実さと自分のすでに持っている考えに引き寄せて作品を曲解する)ことに怒っているのだと思う。そうならないために、自分は読書会を通じて作品と粘り強く向き合っているつもり。

 

(ややこしくしているのはこの作品が「私小説」であることのようだ。)

 

しかしきちんと読むとは何だろうか。正確な要約はそもそも可能なのだろうか。

 

例えば、私は『野火』も『夏の花』もあの長大な『神聖喜劇』も戦争反対をメインのモチーフにして書かれているとは思わない。でもそう読む人があってもいいとは思う。

 

 

この問題はやっぱり両者の書いたものをきちんと読んで考えたいと思う。

 

 

土曜日

昨日の日記の作家と評者の論争のつづき。作家の書いたものと評者の書いたものを比べてみたが、評者は致命的な読みの間違いをしていると思った。自分の意見を裏付けるために、その小説を援用したといってもいい。ざっくりと書くと、小説は介護によって老夫婦の仲が深まったという話を描いている。評論は介護によって妻は夫を痛めつけたみたいな真逆の読みをしてしまっている。この小説の面白さは介護によって、介護前には失われた均衡を介護によって取り戻したことにあると思うし、その報われ、その救いを書いているのだと自分は読んだ。(でも斜め読みするとここを逃してしまうと思う)

 

ただ私小説であるということで、その曲解を許さないというのはまた違うと思っていて、私小説を書くにはやはり間違って読み込まれる可能性も考えて書く覚悟がなければいろんな読みを「被害」として作者は受け止めてしまうだけになってしまう。

 

 

でも僕がこの小説の中で一番気に入ったところは、介護云々ではなく、父親の最後を看取るか看取らないかの間の緊張した時間のなかで、ある賞の選考を任されていて多くの作品を読まなければいけないときのこんな情景であった。

 

 

 

作業が終わると、もっとぼーっとする。Kindleに手を伸ばし、手塚賞候補作の漫画をぼんやり読む。『カフェでカフィを』が好きだなぁ。どんなときに読んでもほんのりした気持ちになれる漫画なのだな。

 

桜庭一樹『少女を埋める』

 

 

 

ツイッターでつながりのあった方から、好きな邦楽を語る会みたいなネット上のコミュニティに招待され入った。(招待はずいぶん前にされていたらしく今日になって気づいた)。みなさん好きな邦楽について思い思いに語っていて、ネット上ながらも良い雰囲気が伝わってくる。コミュニティの空気は、不思議とそのコミュニティを立ち上げた人の空気に似る。類は友を呼ぶということなのだろうか。自分の主催している読書会や哲学カフェの空気が良いものであるといいな。

 

 

夜は「悩める教師たちのオンライン対話」を開催する。2ヶ月ぶりくらいの開催。今回は「学歴は不要か?」について対話をした。最近の大学生は学業に忙しいらしく、そういえばモラトリアムという言葉も聞かなくなったなあと思った。あとは今の学生が学問や恋愛に費用対効果(コスパ)やリスク管理といった言葉を持ち出していることにショックを受ける。

 

 

 

日曜日

今日は別府鉄輪朝読書ノ会の日。OBSラジオの収録もした。ラジオの素材としてどこまで使えるのか分からないけど、会の雰囲気は十分伝わるものが録れたのではないか。ディレクターさんに声が良いと褒められる。導入部のナレーションもお任せするとも。

 

声というものにその人の生きてきたレコードが刻まれたりするのだろうか。僕はいろんなファシリテーターをしてきて、最近自分は参加者の意見を聞きたいと言うより声を聴きたいんだと強く思うようになった。響きといってもいい音楽的ななにか。

 

 

夜は小説家保坂和志さんの「小説的思考塾」をオンラインで視聴する。Zoomなのに、保坂さんの語りが小説やエッセーと変わらない文体で楽しかった。ラジオでもこういう緊密さとゆるさが同時にあるようなものを目指せるといいな。

 

 

小説的思考塾のテーマは「本の読み方」だった。(またそれは同時に「小説の書き方」でもあった。)なぜ人は小説を読むとき、または書くときに「構えて」しまうのか。小説然としてしまうのか。いかにそういうところから逃れるのか。小学生のように世界と接続できないか。小説を読むとは、読んで明日も頑張ろうと思ったりするのではなく、そういった社会生活とは別のもがあることを確認する為にあるのだ。

 

 

蝉の声が徐々に遠くなっていく。昼と夕方でもその遠ざかりが感じられるし、八月が過ぎていくことによっても遠くなっていくのを感じる。

 

 

 

 

万人に共通なひとつの尺度は、つねに存在している。

しかし それぞれの人間にはまたかれ固有のものが授けられている。

そして人はそれぞれ おのれの進みうるところへ進み 行いうることを行うのだ。

 

ヘルダーリン『パンと葡萄酒』手塚富雄訳(河出書房)1967年

*『無為の共同体』の冒頭に掲げられた言葉