対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

伯林の瞬間

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2002.10 Seoul 街の猥雑さは誰がつくるのだろう

 

 

 

音のうまれるときは、人間の内部にもからっぽな空間がある。心にじゃまされずに音に気づき、音のはこびをほとんど意思の力で消えるまでたどる。音をつくる身振りは訓練をかさねて、意識からはなれていく。フィードバックの環はまわりだすと、はじまりの点はもうない。

 

カフカ 夜の時間』高橋悠治

 

 

 

 

2021.09.13-19

 

 

月曜日

今日は久しぶりのフリーの一日。

ぼーとしたかった。

 

 

そしてプルーストを少しずつ読む。

 

 

 

自分の活動を特集したラジオ放送がなされる。タイトルは「注文の多い文学カフェ」。ああ言えば良かったとか、あれを言えば良かったとかいろいろ反省はあるし、それが学びとなったいい機会だった。言い漏れたこととして、戦後のはるかはるか後に生まれた自分が、なぜ戦争文学にそんなに拘るのかという問いとそれに対する応答なのだが、自分は20代のはじめに沖縄を一人旅していて、地元のタクシーのおじちゃんからワンマンで戦跡をずっと案内してもらって、最後に集団身投げをした喜屋武岬に辿り着いて、誰もいない断崖絶壁を前に立って風に吹かれたときに、「戦争」というものが、自分の中に入ってきた、理解できたような気がしたのだった。それはひめゆりの塔や慰霊場などの観光地化?された表顔の戦跡では得られない言い様もなく迫り来るものがあった。その旅から帰って以来戦争文学を渉猟するようになった、嵌まった。そんな大事なことを言い忘れたと後悔していたら、ディレクターチョイスの沖縄音楽が流れ出して吃驚したのだった。

 

 

火曜日

ひんやりとした雨の一日。

だんだん肌寒くなって長袖を着始める。

夜になるつれて気温が上がって半袖に着替える。

 

 

ユリイカ中島敦特集が届く。1977年の9月号で、吉田健一の追悼特集も挿まれている。60年代とか70年代くらいの誰も光を当てないような古本が好きだ。古本屋もカフェと併設したお洒落なものよりも、古い紙の匂いのする狭苦しいものが好きだ。自分だけを光を待っている。蓮實重彦夏目漱石論が掲載されてあって、その文体は変わらず私が生まれる前から蓮實は蓮實であったのかと嬉しくなった。そう言えば蓮實の『草枕』の映画化はどうなったのだろう。

 

 

 

漱石的「存在」が滝を視線におさめることの危険は、とうていただれた胃袋に酒を流しこむことの比ではない。「滝」とは行ってはならぬ場所の名前なのである。

 

夏目漱石論 Ⅴ 水の変容』蓮實重彦

 

 

 

 

水曜日

 

読み終えることができないかもしれないという予感をはらんだ読書ほど甘美なものはない。

 

 

 

教会を去ろうとして、祭壇のまえにひざまずいた私は、立ちあがる拍子に、ふとアーモンドのようなむっとするあまい匂がさんざしからもれてくるのを感じた、そしてそのとき、この花の表面にひときわ目立つブロンドの小さな点々があることに気づき、あたかも、アーモンド・ケーキのこがし焼の下に、フランジパン・クリームの味がかくされ、ヴァントゥイユ嬢のそばかすの下に、彼女の頬の味がかくされているように、このブロンドの小さな点々の下に、この花の匂がかくされているにちがいないと私は想像した。さんざしの不動の沈黙にもかかわらず、この間歇的な匂は、さんざしの強烈な生命のささやきのようで、祭壇はそんな生命に満たされて、元気な触覚をもった虫たちの訪れを受ける田園の生垣のように震動していたが、ほとんど赤茶色に近い雄蕊のいくつかの点々を見ていると、誰にもそんな元気な触覚が思いうかぶのであって、それらの雄蕊は、きょうは花に変身しているが、元は昆虫で、その昆虫の春の毒液、はげしく刺す力を、まだ残しているのではないかと思われるのであった。

 

失われた時を求めて Ⅰ 』 第一篇 スワン家のほうへ

マルセル・プルースト 井上究一郎 訳(ちくま文庫

 

 

 

 

木曜日

息をしていた。たぶん

いまは生きている。たぶん

 

 

 

 

 

 

 

 

金曜日

 

 

台風が通過する。ひだりから右へ。

オカユが怯え気味で、傍を離れない。

気圧の影響か気分が優れない。ふわふわする。

 

 

九大のPCって全部Macなのか。

20年以上前のMacは宗教性さえ帯びていて、それがPOPでさえあったから、

ほんとうにMacは信者をもっていた。私もその一人だった。

今は大衆化してしまったけど、Mac以外のPCを買う気にはなれない。

クラリスワークスとかのソフトを開いたときのドキドキ感はもう味わえないだろう。

 

 

月のきれいな夜。

うちの書斎の窓は向きが良くて、

机に座って本を読みながら月が正面に見えるのを自慢したい。

 

 

 

土曜日

さんざん暴れまわってふと温帯低気圧に変わる炭酸の抜けたさいだあのよう

 

 

夜はオンラインで哲学カフェを開催する。

テーマは「最近、冒険してますか?」。

予想に反し、女性ばかりの参加者での回となった。

女性だけの回は読書会でもそうだが、一種の和やかさがある。

男性がそうではないということではないけど。

ジェンダーって何だろうか。これもまたテーマにしたい。

これを読んでくれているみなさんは最近冒険してるだろうか。

 

 

それにしてもOSをBig Surに変換してから、動作が重くなったり、

Zoomもいろいろ設定が変更されて不調で、あやうく開催が出来ない事態に

陥るところだった。

 

 

日曜日

清々しい朝。

太陽光線が徐々に透明になっていくこの季節の無上さ。

 

 

 

朝はオンラインで「本読みに与ふる時間」を開催する。

集中して本が読める時間。もっとみんな参加して活用してくれたらいいのにと思う。

コロナが明けたら、東京のfuzukueに行ってみたいな。憧れる。

読書は苦痛でありつつ幸福な時間なのだ。

 

 

 

飛騨地方で地震があったようだ。

住んでいた町の風景がライブカメラで映し出される。

胸がぎゅっとする。

あの町は不思議と風の吹かない町だった。比喩ではなく。

大きな山脈に囲まれているからだろう。

この町で「文化」と呼べる場所は、町の端っこにあって車でしか行けない

国道41号線沿いのヴィレッジ・ヴァンガードだけだった。

大雪の日にたまたま見つけて、中に入って、真新しい本とPOPを見たときは

本当に感動したものだった。そういった空気に触れたのも1年ぶりくらいだった。

たぶんそのとき、私は泣いていたと思う。

 

 

 

 

私がはじめてベルリンという地名に木霊するものを自分の中に感じたのは、ベンヤミンの本に出会ったときだった。一九六〇年代の終りから、その著作集が日本でも翻訳されはじめていた。とくにそのうちの文学的なものといえる『ベルリンの幼年時代』を読んだとき、私はたちまちその見知らぬ都会に抱きすくめられたような気がした。

 

『鳥を探しに』平出隆