対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

音溝のないレコードを聴く

 

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2002.10 Seoul 砂埃の舞う大通りを愛した



 

 

 

 

 

漂白とは、たどりつかぬことである。 たとえ、それがどこであろうとも、 われわれに夢があるあいだは、 「たどりつく」ことなどはないだろう。

 

寺山修司「旅の詩集」

 

 

 

 

 

2021.9.27-10.3

 

 

月曜日

プルーストをほとんど読めない一週間。

 

 

 

ピンホールカメラで撮影された写真が好きでインスタなどハッシュタグをつけてフォローしている。わたしの感覚の中でピンホールカメラの映し出すあの滲んだ「現実」のほうがわたしの生きている実感に近くて、故郷に帰ったような気持ちになるが、最近それが自分の極端な近視からきているのではないのかと書いていても思うようになった。朝目覚めたときにまず見る風景がぼやけた滲んだ風景なのだから。すべてが遠い、手が届きそうで届かない、死ぬ最後に横たわったときに見た風景にも似ているけど、強い現実感がある。音も遠く、未来の既視感のようだ。

 

風の旅人を主催する佐伯剛氏がピンホールカメラで撮影した各地の聖地をおさめた写真集「日本の古層」を眺めると、(この言葉はあまり好きではないけど)とても癒やされる。とても優しい。

 

 

 

 

ピンホールカメラはシャッターやファインダーがなく、0.2mmほどの針穴を長時間開くことで写す道具なので、意識的に被写体を切り取るのではなく、無意識のうちに何ものかを招き入れるという感覚の写真行為となります。その結果、生じる画像は、フォトジェニックな人工的建物よりも、岩や樹木や川の流れといった自然の方が、自分の心の深いところに響くことが多くなります。佐伯剛

 

 

 

これを読んで思い出したのが、明治期の写真撮影は露光時間が長く必要で被写体は30分とかじっとそのまま姿勢でいなくてはならなかったことで、そういった緊張時間がワンショットではなくある程度持続したものを求められたのなら魂をうばわれる、魂をぬすまれるといった感覚も肯けた。

 

 

火曜日

窓を開けていると1軒またいで冨士屋さんの庭から咲き始めたウスギモクセイの甘やかな香りがうっすらとどくこの幸福。

 

 

新しいGRが出るらしい。GR3が安くなるといいけど。

 

 

 

いろいろYouTubeを見ても、真剣に見るというよりアンビエントのように見る番組が好きなようで、個人的に好きな小さなお店を訪れて食べるだけの「良々のお通し」というのを見るとはなしに見ている時間を気に入る。あと金剛山山頂のライブカメラとかとても好きで、こちらに向かってみんな手を振ったりおどけたりして、何故だか泣きそうな感情におそわれることがある。夜など誰も登山している者などさすがにいないが、無人のカメラの奥に写る大阪の街の夜景が瞬きをしていてこれもまたぐっとくるのだった。

 

 

 

水曜日

台風性の風がときに強く窓のカーテンを揺らす。

 

 

夜はオンラインで「LISTEN」という本を読む読書対話会に参加する。読書会を自分も主催しているが、いろんな読書会の在り方があるものだと思う。一つはテキストとの距離の取り方で、自分の主催する読書会は文学が対象と言うこともあるのだけど、テキストからなるべく離れないこと、テキストを中心にした対話を目指している。テキストにとことん付き合う、向き合うことを是とする。なので事前にすべてを読んでくるというのが参加条件になる。別の在り方としてはテキストはあくまで対話のきっかけで、それをネタや肴にして語り合うというスタイル。事前に全部読まなくてもよいとなる。自分はそのテキストの可能性を骨の随まで探り当てたい気持ちが強いようだ。作者の思惑を超えてもなお。

 

 

 

木曜日

大分のコロナ感染者数がついに1桁になった。

なんだか肩の荷が少し軽くなったような開放感。

今までと何か違ったことをするわけではないが、気持ちは上向きになる。

 

 

 

 

 

金曜日

ついに十月になった。

台風のあおりのような風が吹く。

気持ちのいい秋晴れ。

台風の影響か僕の持っているストームグラスの結晶体が激しく変化する。

因果関係は分からないけど。

 

 

 

前回の読書会で、キリストとその弟子たちの旅路はつらそうだけど、孔子のそれは楽しそうというある参加者の言葉が残って反芻している。

 

 

土曜日

MacのOSを変更すると動作が重くなるのはあるあるで、以前のMacBookもそうだったけど、、他の人はこれにどう対処しているのだろう。

 

 

 

新しい参加者からの申し込みがある。

ラジオでも聴いてくれたのだろうか。

新規の参加者は場を活性化させてくれるので有り難いし、常に望んでいる。

 

 

 

日曜日

午前中はオンラインで対話勉強会に参加。

 

 

今日は何について話すのか分からないけど、とりあえず参加した。何について話すかも決まっていないのに参加して語り合うのを楽しみにしているという会はなかなかないし、自分の主催する対話の会もそうありたいと思うが、これがなかなか難しい。どうしても選ばれてしまう。構えられてしまうということか。ふらっと立ち寄るようなものでありたいけど。

 

 

哲学対話におけるリスクの回避もしくは軽減するための方法として、事前に哲学対話のデメリット、副作用を伝えておくのはどうかという提案があった。例えば、対話によって参加者との違いが明確になることが自身のマイノリティ性を自覚させ、寂しくなったり葛藤が起きたりすることがあります、みたいな。

 

 

その他諸々様々な問題意識が共有できて、有意義な時間だった。

 

 

 

 

別府湾の向こうから爆発音のようなものが聞こえると思って外の高台に出たら、

花火が遠く微かに上がっていた。

距離の問題か爆発音と花火の打ち上がるイマージュとが甚だしくズレている。

大分ドームの辺りから打ち上がっているのを見ると、

J1大分トリニータがやっとの勝ち星を挙げた祝砲に違いない。

でもまだ降格圏内。J1残留の切符は爆発した切符だ。

 

 

 

 

診察が上手くいっている時いうのは自分の身体の境界というのは感じません。全然感じないです。しかし不安はないですね。自分があるのかないのかあまり問題にならない。

 

 

 

中井久夫