対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

空襲を待ちわびて

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第一章  岬をたどりながら

 

一歩にはじまり、さらに一歩、そしてさらに一歩と、打楽器を叩きはじめるように積み重なってゆく歩行のリズム。歩行はたやすくわたしたちを誘い出す。宗教、哲学、風景への眼差し、都市の政治学、人体の解剖学、アレゴリー、そして癒やしがたく傷ついた心の奥へ。世のなかにこれほどありふれていて、これほど謎めいたものがあるだろうか。

 

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)

 

 

 

2021.10.18-24

 

月曜日

冷え込むと温泉がおいしく感じる。

沁み入る温泉。

 

 

サッカー元日本代表の城氏がスペインのリーガに移籍したときに言葉が分からなくて仲間とコミュニケーションがとれず相手にもされなくて苦しんだという。ある日ついに発狂したかのように部屋で泣き叫んで呻いて暴れた。通訳の人も怖くなって逃げた。翌朝食時、いつものようにテレビで天気予報のニュースをつけていたら、突然テレビのスペイン語の言葉が自分に近しいものとして内側に語りかけてきたという。

 

 

「これ今、今日は晴れって言ってない!?」

 

 

通訳の人に驚いて聞いたら、そうだよ!今日は晴れだと言っているよ!と。発狂の後のユリイカというのか覚醒体験のような、あたらしい回路の接続は、強いストレスの後にやってくることが多いようだ。

 

 

 

火曜日

髪を切る。担当のKさんがムロツヨシの髪型を薦めるも分からなかったので次回ということで。帰って画像検索したらなかなか面白く、こんなのもありかと思った。ヘアカットは自分のイメージと他者のイメージのせめぎ合うところ。自分のイメージの斜め上を行くようなところに他者との出会いがある。ちょっとした違和感をとりこんで。

 

 

 

水曜日

夜会。秋の日のヴィヲロンのためいき。諏訪内晶子シャコンヌ。音の粘度、艶、愁いとか軽さも全部あった。

 

 

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木曜日

寒い。温泉に入る。寒いと温泉に入ればいいという環境に生きる。

入れば、2、3時間ポカポカしている。

 

 

図書館で児童書をまとめて読む。児童サービス論。

自分で読書家だとは思うが、児童書は熱心に読んでこなかったので、

図書館で有名どころを手に取ってみるも、あやうく涙しそうになる。

 

感情に迂回がなく、世界の内側と外側が地続きになっている子どもの世界。

何度も涙が滲む。これが絵本セラピーというやつなのかもしれない。

 

 

「おちゃのじかんにきたとら」「ウェン王子ととら」「オツベルと象

椋鳩十のイノシシ物語」「アンジュール ある犬の物語」「なまえのないねこ」

「百枚回生きたねこ」「あおくんときいろちゃん」「あいうえおのき」

「ムッちゃん」「字のないはがき」「ぞうれっしゃがやってきた」等々

 

 

「ムッちゃん」を読んだのは30年以上ぶりではなかろうか。

かび臭い腐敗した水を飲むシーンは強烈に子ども時分から記憶に残っている。

「ムッちゃん」は大分の児童書の郷土コーナーのところにあった。

他県ではあまり読まれていないかもしれないが、

大分の人なら誰もが知っているような児童書だ。

 

 

ムッちゃんは戦時中洞窟に筵を敷いて暮らしていた少女の話だ。

横濱から大分に疎開してきたが、結核を患っていたため親戚から追放された。

洞窟での孤独な生活。食料とかどうしていたのだろうか。

ただその洞窟生活も孤独でなくなる時がある。

空襲がきたときだ。空襲がくると多くの人がその洞窟に押し寄せた。

少女にとって空襲は孤独が癒える、同じ年代の少女たちと交流ができる

たのしいひとときだったのだ。今回読み直してみて、その設定に衝撃を受けた。

 

 

 

 

 

身動きのならぬ病床でも、実際に喘いだことはほとんどなかった。一度息を走らせたら、辛抱が破れて、喘ぎが止まらなくなるとおそれた。しかし細く揺らぐ平衡がどうにか落ち着いたかという時に限って、安堵の隙を窺っていたように、笑いにも似た喘ぎの衝動がゆっくりと上げて来て、自分で自分を、剥離気味に眺めるうちに、制止の限界にかかり、手足までがひそかに、責任の分担を放棄して躁ぎ出す。砕けかける波の壁の、巻き込まれる間際の、透明に伸び切った碧を想った。それを堪えるだけ堪えて、長い息を抜く。喘ぎにはならないが、その平穏そうな息があたりの静まりの中で何かの間違いのように、聞こえることもあった。

 

 

『野川』古井由吉

 

 

 

 

 

金曜日

今日はいくばくか暖かい。

明日から福岡へ。県を越えるのは1年ぶり。

 

 

 

国道を駆ける馬二頭、通報相次ぐ愛知。気持ちよさそうに走っていたと。

石原吉郎の詩。「馬と暴動」を思い出した。

 

 

 

 

 

われらのうちを
二頭の馬がはしるとき
二頭の間隙を
一頭の馬がはしる
われらが暴動におもむくとき
われらは その
一頭の馬とともにはしる
われらと暴動におもむくのは
その一頭の馬であって
その両側の
二頭の馬ではない
ゆえにわれらがたちどまるとき
われらをそとへ
かけぬけるのは
その一頭の馬であって
その両側の
二頭の馬ではない

われらのうちを
二人の盗賊がはしるとき
二人の間隙を
一人の盗賊がはしる

われらのうちを
ふたつの空洞がはしるとき
ふたつの間隙を
さらにひとつの空洞がはしる
われらと暴動におもむくのは
その最後の盗賊と
その最後の空洞である
  


石原吉郎 

詩集「サンチョ・パンサの帰郷」

 

 

 

 

 

 

土曜日

福岡へ。NHKの主催する朗読セミナーへ参加。

初級篇のコース。

ただ受講生はなんらか声の仕事や活動に関わっている方たちばかりで

そのレベルの高さに驚く。

お寺に僧の体験入門に行ったら、自分以外皆お経がそらで言えているみたいな。

 

 

「音を起こす」「読まない」「気持ちを引き取る」「発信力」

 

 

先生の言葉の意味が分かっても、体に落とし込むのはなかなかだ。

何度も何度も読み直す。

 

 

一日経ってかなり上達したようだ。

他人の上達にはすぐ気付くものの、自分の上達は分かりにくい。

 

 

疲れたのか、ホテルに帰って10時間以上眠った。

ホテルの近くを歩いていたら中野正剛の記念碑があった。

 

 

 

 

日曜日

NHK主催の朗読セミナー中級篇。参加者のレベルも上がり、朗読対象となる作品も難易度を増す。特に谷崎潤一郎少将滋幹の母』は難しく、4時間くらいかけて何度も何度もみなで輪読した。自分でもかなり上達したのが分かった、手応えを感じた。先生曰く「体に伝わる音が変わった」とのこと。

 

 

 

自分が朗読に関心を持ったのは、ラジオに出演し自分の朗読を聴いてから、もっと力をつけたいと思ったのと、日下武史氏の朗読『李陵』を聴いて雷に撃たれたからだった。演劇や古典芸能もそうだと思うが、優れた声、所作や存在も含めたものは、それが世界に放たれた瞬間、空間を変質させる。卑弥呼とかどんな声だったのだろうか。

 

 

 

 

 

看護師していた時、精神病院でなくても癲癇の人は結構いた。昔は癲癇は神聖病と言われたそうだけど、ほんとにそういうところがある。発作の最中はそこだけ空間が別次元になる。その空間には驚きのあまり言葉を失う。祝祭空間と言えるかも知れない。これも繰り返しツイートしている。ドストエフスキーは癲癇だった。その発作の最中の恍惚はわずか数十秒が全人生に匹敵する。と言っている(言葉はうろ覚え)。私はこのことを、舞踏を語る時によく引用する。舞踏において「よく踊れた10分間は実人生の10年に匹敵する」。それくらい時間も空間も凝縮される。舞踏でなくても身体にはそういうところがあるが、舞踏は特にそれが激しい。舞踏を始めたら、せめてそこまでは経験して欲しいと思う。

 

 

舞踏家 最上和子Twitterより