信仰心の強いあなたでも、その証を欲した
Hallelujah レナード・コーエン
2021.11.15-21
月曜日
いい天気。あたたかい。
別府の熱の湯温泉は市営のものでおそらく唯一無料だ。
だから多くの人が集まるし、そこには福祉的な意味もあるかもしれない。
しかし今湯量が足りず工事中で使えなくなってしまって、
ここを利用していた人たちが周辺の温泉に入るようになった。
周辺の温泉は100円とか150円の有料なのだが、それを払わない人も散見され、
注意すると逆ギレする事態も起きている。
ごく一部の人なのだろうけど、なにごとも当たり前となってしまうと美しさや
崇高な理念は消え、我欲だけが残ってしまう。
一遍上人の見た地獄といわれた天然の風景を徳に変えた残り香を、Y爺に見るのだが、
その話は別の機会にしたい。
火曜日
週末の読書会のためデュラスの『ラマン』を読み直す。
ものすごいエクリチュールだと何度も溜息が出る。
一気に読めなくて、少しずつ囓るように読み進める。
この小説をどう語ってよいのか、言葉が出ない。
あの人たちにとっては、書くとはまだ道徳的なことだった。
マルグリット・デュラス『ラマン』
水曜日
晴れる。
コロナで海外に行けないからか、ここ最近別府鉄輪温泉には修学旅行生を多く見かける。なんらかの課題を抱えて鉄輪の町をグループで歩いているようだ。たとえば、アメリカの友人を鉄輪に案内する際に英語でどう案内していくかなど。二階の窓の下から、そんなやりとりが聞こえ、オカユが現れるとかわいいという黄色い声が聞こえてくる。
定例のフリースクール立ち上げの打ち合わせ。今日はRさん宅で。
今日は主に価格設定について。近隣の塾の資料と比較しつつ検討する。
収支を見ていかなければいけない。
それにしても、話し合うこの3人のバランスが良い。
タイプがそれぞれ違うし、お互いに高め合い補い合い、それぞれの立場から深め合う。
こういう有機性は会社員時代にはなくて、引っ張り合い打ち消し合って疲弊していた。
木曜日
ウカリユハウスの片付け、部屋の仕様を進める。
場や空間はなにもなければ、うつろなただの広がりだが、
仕切ったり、椅子を置いたり、光をあてたりすることで即変容する。
喫茶から収容所から、教室から監獄までのグラデーション。
横1800のホワイトボードをひとりで組み立てたが、
取説には一人で組み立てないでくださいとの注意書きが。
ホワイトボードが入ると一気に学び舎ぽくなる。あとは机、椅子か。
金曜日
来月にわが師、尼崎の赤井さんのところへ仲間と視察へ行く。
寺子屋のようなものをつくるにあたって、そこは導きとなる場所だ。
だがフェリーがちょうどその日に定期検査のための欠航日だとわかり、
自分だけ一日早めに行って京都を探訪しようと計画する。
ツイッターつながりの京都に詳しい方におすすめの場所を問うたら、
粋なスポットを幾つか紹介していだいた。
中でも下鴨の旧三井家別邸の特別公開は垂涎ものだ。意味不明なまでの贅と造り。
https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/cmsfiles/contents/0000290/290390/flyer.pdf
土曜日
しずかな土曜日。静かなるドンと自動変換された。
夜オンラインでシネマ哲学カフェを開催する。
今回取り上げた作品は「嫌われ松子の一生」。
映画表現としてはどうかと思うが、書かれた内容を丁寧に拾い上げていく。
3人での対話だったので、鼎談のようでそれはそれで面白かった。
2でも4でもなく3というものがもつ力やバランスは確かにある。
3角関係? 3人寄れば文殊の知恵とか。
日曜日
熱の湯が再開されたようだ。活気が戻ってくる。
鉄輪スケッチ大会が今日開催されこどもたちを多く見かけた。
今回取り上げた作品はマルグリット・デュラスの『ラマン愛人』。
読書会も参加者が3人で、いつもと違う雰囲気で話した。
3人というのは人間の認知の仕方、考えの構築の仕方と
なにか親和性があるのではないか。
2だと対立的、うまくいけば弁証法のような昇華もあるが、
多くはなにもそこで「起きない」「起きにくい」ような感覚がある。
考えの起点や創造の積み重ねが。
それにしてもむすびのさん特製のベトナム料理が美味しかった。
昼からは対話勉強会でお世話になっている、デモクラシーCafeさんの主催するオンライン対話に参加。テーマは「意見を批判することと人格を攻撃するというのは、
決めつけられることで「対等性の毀損」が起こったり、私はどんな人間かを表現していくことが大事などいろんな意見が出るなかで、「自分の意見は正しくないのではないのか」ということを前提にするというのが、一番納得いった。
関係ないが参加者の一人の人のZoom画面が時間が経つに連れどんどんどんどん白く曇っていって、部屋や湿度が高くなっているのか霊障なのか分からないが、おれだけそう見えているのか突っ込まれることもなく笑いそうになった。
夜は雨が降った。
学び舎に本を、詩の本を並べていった。
詩はひとの心にいつから植わまっていくのだろう。
わたしが学校以外で最初に触れた詩はアルチュール・ランボーとポール・ヴェルレエヌの詩だった。小学生くらいのときで近所に小さな図書館があったのだが、暇つぶしによく訪れていて、適当に本を借りていた。当時シルベスタ・スタローン主演の「ランボー」という映画が流行っていて、間違えはしないと思うのだが、その延長線上で借りたようだった。それはランボーとヴェルレエヌの詩が一緒になった詩集で(その組合せの意味は随分後になって知った)付録としてペラペラのちいさなレコードがついており、それを家で一緒に居た弟と聴いた。それは詩を朗読したレコードだった。重厚な声で「秋の日のヴィオロンの…」から始まったのを憶えている。ランボーの詩だか「蠅」という言葉が出てきて、弟とげらげら笑ったが、朗読の調子はとても暗く、その「暗さ」はそれまでの人生にはなかった種類の暗さで、場違いなものを借りてしまった感が残った。その不可解な暗さの響きはいまでも自分の中に忘れがたく残っているのだから、詩あるいは図書館という場はおそろしいものだと思う。