対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

冬の京都 2021 その2(水平のちから)

 

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蓮華王院本堂、通称三十三間堂

 

私はなにか仏教がもつ量への傾斜が質を造っていくような発想というか思想が好きで、三十三間堂の異様とも言えるこの横長、水平への延びはぞくぞくさせる。磯崎新氏だったかこの建築に無限焦点という言葉を使ったのは、カメラのレンズで最大値の目盛りが無限となっていることを無限遠とも言い、たしかにここには特定の場所に焦点を合わせることができないような広がり、無限への再現への意思のようものを感じる。本堂内の撮影が禁止なのはまことに残念であるが、ここには1,001体もの仏像が配置されていて、その仏像も千の手を持つといわれる千手観音像で、どれもこれもが人間が瞬間に認知する数を超えている、それゆえの興奮があって、やっぱり圧倒されるし、圧倒されることに強い生き甲斐とでもいうものを感じてしまい、圧倒を現前させることと、ここにあるイリュージョンに人間であることの底力を、こう言ってもよければ文学が生起する力と同質なものを感じるのであった。それが柳原銀行を見て、ひとつないものだと自分が勝手に思ってしまった。紀州にはあったものが。いやただ知らないだけかもしれぬ。大森大道の言うようにただ目の前にあるものだけが現場ではないのだ。経典と仏像をつなぐものが文学的想像力だと仮に書いてみる。それを仏像萌えとか、推しとか言ったりするのだろうか。好きなお寺がひとつ増えた、また来たい。関係ないが「私立!三十三間堂学院」という萌え漫画が全13巻あるようで、ぜひとも読みたいとも思う。

 

 

私のここでのまた別の幻視は、あるフラジャイル、地震が起きた際に直立するこれらすべての仏像群が倒れてしまうことであった。むろんそれなりに固定はしているだろうけど、その数の多さゆえにか不安定で壊れやすさを思った。京都という土地はそもそもそういうものだったのだろう、紙のような。「2016年(平成28年)に京都市埋蔵文化財研究所の調査により、地盤は砂と粘土を層状に積んで構成されていることが明らかになった。これは積層ゴムが建物の揺れを吸収する「免震」のメカニズムと共通している。」とWikipediaには書かれてあった。

 

 

出る前に御朱印してもらう。大きなところでは、事前に墨字したものを渡されることがあるが、私はその場で書いてもらうことの方を好む。墨の運びを見たいから。書いているとき押印から墨書きまで、その流れをじいっと見ている。私の経験では、神社はあまり上手でない人が書いていることが多く、お寺では達筆な方が書いていることが多い。

 

 

つづく