対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

含羞の彼方に

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以前鉄輪朝読書ノ会に参加した女性Aさんが、男性Bさんの言った「男は優しい女が好き」という発言に怒りを覚えたというブログの記事を読ませていただいた。それは女にかける呪いの言葉だと。

 

 

私はファシリテーターとして現場で、AさんがBさんの発言に対して違和感を覚えているもしくは不満を感じていることは伝わっていた。AさんのBさんに対する反応を見て、そう感じた。

 

 

ただそこに私は〈「男は優しい女が好き」だと思っている情けないオレ〉という、幾層かの括弧、あるいは留保とか、また含羞というものがBさんの発言の内にあると表情や言い方を通して感じ読み取ったので、目くじらを立てることも、ましてや問題発言だとも思わなかった。そういう含羞を生きるところに彼のすべてが、そして文学とともにある彼の在りようが反映されていて、私にとってはそれこそが彼の魅力だったが、言葉だけを括弧を取り払って受け取ってしまうと、それは「呪い」として発動してしまう。文学の複雑な魅力のひとつに、台詞において字義通りでないところに表れるだろう。

 

 

たとえば(これは文学ではないけど)、さだまさしの「関白宣言」という歌は、嫁に飯を上手につくれや、おれより先に寝るなとか、いつもきれいでいろなど、まさに「呪い」の言葉に満ちているが、あるフェミニストからは激賞されたと聴いたことがある。そのフェミニストはこれを字義通りには読まなかったということだ。さだまさしの歌声から畳みかけられるその「呪い」の歌詞こそが逆説的に、愛を、男の弱さを、情けなさを浮き彫りにし、未熟な者が結婚という困難な道を選ばんとする前のびびりと覚悟がない交ぜになった心境がそのような強気な発言をさせていることに気付いていく。(これは解釈だ。そんなことはどこにも書いていない。でも歌を聴くと私にはそうきこえる)

 

 

わたしもBさんの発言をそのようなものとして聞いた。仮にその言葉に刃のようなものがあったとすれば、それは女の方ではなく、男の彼自身に向けられていたし、そこに倫理があった。(これは解釈だ。そんなことは誰も言っていない。でも彼の表情を読むと私にはそうきこえる)

 

 

これは高度なコミュニケーションかもしれないけど、たとえば和歌を読む楽しみとかってこういう言葉の背後にある「本当の気持ち」を読み取っていく知的な遊戯ではなかったか。文学を愛するBさんはある種のウィットをもってそれを体現しているように私は思える。。

 

 

さきの読書会の対話の場面において、問題があったとすれば、自分がその状況に対して第三者として、上記のような文脈を両者に問いかけずにスルーしてしまったことにあると思う。対話において「拾っていくこと」の重要性を最近は強く感じている。拾うことで救われることが多くある。もちろん時間制限のあるなかで、すべてを拾っていくことはできないけど。

 

 

そしておそらく私とBさんの長年の信頼関係が、AさんとBさんとの間にはないこと、そこにおける対話というものは、言葉の背後にある多義的なユレを読み取ることよりも、端的な字義通りの息の詰まった掛け合いになりがちであること、対話のむずかしさ、怖さ、そして奥深さを改めて知る機会になった。