オンライン・ソーシャルカフェを開催しました。
今回のテーマは「心の闇って何?拡大自殺を事例に考える」でした。
「心の闇」というのが誰にでもあるものなのか、特定の人にだけあるものなのか、誰にでもあるのだけれど普段は無意識下に収まっていて、それがなんらかのトリガーで引き出されて事件を起こす、またはそれにあるとき支配されて事件を起こす。現代の自己啓発の本が書店に溢れる社会では「心の闇」がないことを前提としているなどの意見がありました。
ワイドショーなどで使われる「心の闇」は、曰く説明し難いものに対して当てられるレッテルに過ぎないという意見がありつつも、それが若い人の間で口々にのぼるということは、それなりのリアリティや存在理由があるのではないのかという問いも。
外部との関わりではなく、自分との関わりにおいて闇が生まれるのでは?
事件の原因を心の問題にすべて還元していいの?
「心」という部品を取り出して、修理すれば済むのか?
自分では未解決のこと、そこで時間が止まっていること、何度もそれを反芻すること、
それが溜まり淀む、それが心の闇?
ほかに人を殺してみたいという欲求について。また殺したい、自殺したいという人を前にしてかける言葉はあるのだろうかという問いも。
人間を理解可能な見通しの良いすべて光を照らすことのできる存在と見るのか、理解しがたい不気味?なものとしてそもそも捉えるのか。闇の中の可能性なども語られました。
途中でmさんが、自分のなにかを守ろうとして事件を起こしたとは考えられないだろうかという問いを出されたときに、ふと以前ツイッターで、ジョーカー事件に関して「クソデカイかにになりたい」さんがこういうツイートをしていたのを思い出しましたので引用します。
「置かれた場所で咲く」ために、リアルの植物は毒を放出したり、棘をまとったり、ライバルの生命線を物理的に切断したり、火災を引き起こしたり、獲物を騙して捕らえて溶かしたり、利用価値のなくなった運び屋を監禁したり、敵を粘液で固めて餓死させたり、敵の敵をおびき寄せたり、いろいろやってます。
これから拡大自殺について考えようかというところで時間がきてしまいました。今回はテーマが広すぎたかなという反省。機会があれば、また考える時をもちたいと思います。
ご参加ありがとうございました。