対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

着る服がどんどん軽くなっていく喜び

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mimosa 2022

 

 

ソクラテスは、話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。

wikipediaより ソクラテスが著作をおこなわなかった理由

 

 

 

 

2022.3.14-20

 

月曜日

Bareishotenさんにて、注文していた本を取りに行く。

平日の昼間でもお客さんは絶え間なかった。

本の空間にただよう静けさを愛する。

 

 

 

火曜日

あたたかいを通り越して暑いくらいの日中。

袖をまくって白くなった腕を日に晒してみる。

 

 

 

水曜日

髪を切った。暖かくなったから。

着る服がどんどん軽くなっていく喜びってなんだろう。

武装解除するような、外の空気との和解。

 

 

木曜日

なにかに使われるのではなく、自分が主体となって時間や存在を使っていく。

そうしたことが極端にできなくなっているのが今の社会、

と書きつつ、使命を見出した人間は何かに使われているのかもしれないとも思う。

たとえば芸術とか。

 

 

 

金曜日

雨が降り振り、気温がぐっと下がった一日。

 

 

県北の県立高校での哲学対話にアーダコーダさんから招待していただき参加する。

豪雨のなか峠を越えて車を走らせる。

学校で哲学対話をするというのは自分の一つの目標であるが、

実際はなかなか困難を伴っている。

そんな中、教頭先生が音頭を取って長く取り組んでいる姿勢が素晴らしかった。

改善したいと思える点もたくさんあったが、それでも一歩一歩着実に哲学対話の芽が

出ているとも思えた。

先生たちが慣れない「ファシリテーター」という役割と格闘しているのもいい。

ファシリテーションとは、先生が先生でいられなくなる地点でもある。

足下がゆらぐ。そこから対話的な教育が始まるだろう。

2年生の問いは「何のために学ぶのか」だった。

多くの生徒が自分のためと答えているのに対し、ある一人の生徒は次世代に

正しい歴史を学ぶためと応えていて、心中おおっとなったのが私的ハイライト。

 

 

 

土曜日

少し寒の戻り。

シネマ5bisで映画「クレッシェンド」を鑑賞。

イスラエルパレスチナの音楽を通しての対話的寛容の可能性と不可能性についての

映画。マエストロを初めとした「大人」たちが途中で対話を諦め去っていったのが

残念すぎた。

 

そんなときいつも、レヴィナスの『存在の彼方へ』に対して書かれたある人のブックレビューを思い出す

 

 

 

コミュニケーションの重要性と厳しさとがこの本から伝わってくる。安易に対話という言葉が用いられる今日において、大変意味深いものである。そもそも他者と関わることとは、人間が生きていくうえで避けられないことであり、またごくありふれたことでもある。しかし他者と関わるということは、決して生易しいことではなく、大変な覚悟が必要である。人と人との間には必ず暴力の生まれる可能性があるからである。相手にコンタクトをとることは、自らを危険に晒すことであるともいえる。人はこの暴力性と攻撃誘発性とを自覚しなければなるまい。相手に語りかけることの真摯さと難しさが伝わってくる。主体が他者によって形成されるといった議論もまた、示唆に富んでいる。
確かに訳はよくない。拙い語学力で原書も読んでみたが、やはり困難であった。数ページ日本語にしてみたが、こなれない。そう意図された本なのだろう。しかし読んで欲しい。生きるとは他者とのかかわりの中で意味を成す(当たり前だね)と考えている私にとって、もっとも推したい本である。 

 

 

 

 

 

日曜日

午前中うかりゆハウスでこども哲学の時間を開催。

この優しい、心穏やかな時間をどう表現したらいいのか。

集まってくれた高校生も楽しんでくれたようで良かった。

問い出しから始めたのだけど、ある10代の青年から「戦争はなぜ始まるのか?」

という問いが出たのには心中おおっとなった。

 

 

夜はオンラインで哲学カフェ。

テーマはウクライナ情勢にからめて「対話の力とその限界について」

戦争のことは会社などでは話しづらく、こういうフラットな場でこそ話せるからと

参加してくれた人がいた。