青山真治監督が亡くなったことをヤフーニュースで知った。
青山真治監督との出会いは25年くらい前になる。当時映画美学校(たしか前身は映画技術美学校)の1期生として私はお茶の水のアテネ・フランセ文化センターに通っていた。そのときの講師が青山真治氏だった。
私は当時大学3年生で、大学で哲学を学びながら所謂シネフィル(映画狂)という奴で、寝ても覚めても映画を見ていて、映画サークルにも所属しながら8ミリフィルムで映画を撮ってもいた。本当は8ミリじゃなくて16ミリで映画を撮りたかったけど、そんなお金はないし、もっと映画についてシナリオなり撮影の技術なりきっちり学びたかったが習いたい講師のいる学校はなかった。
ある日アテネ・フランセ文化センターで映画を見た帰り、並んでいたフライヤーの中に、新しく始まる映画学校の生徒募集の告知があり、目が釘付けになった。(このとき一緒にいた友人からは顔つきがこのときから変わったと言われた。)
講師としてのいちばんの目玉は当時イケイケだった黒沢清さんだったが、私は青山さんの存在に惹かれていた。青山さんは当時30代前半で一番若くして既に監督業をしていたので憧れが強かった。
結局、私は映画美学校へは初等科、高等科、研究科と3年ほど在籍した。多くの映画製作に関わり、幾つかのシナリオを書いた。青山さんからはたくさんのアドバイスをいただき、今でも彼の言葉を覚えている。彼のもっている音楽性のようなものが、創作への重みから私を軽やかにしてくれたように思う。
映画「どこまでもいこう」の撮影現場のきつい夜間撮影の際に、みんなにキーマカレーを作って振る舞っていただいた、あの味も今でも覚えている。
お家(アトリエ)に遊びに行ったときも、たくさんの蔵書があって、文学の下地もあることを知った。
すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために…
彼の作品タイトル。
レトロスペクティブをやるなら流してほしい一般には見ることの困難な作品だ。
ご冥福を祈るという言葉は遠い気がする。
ありがとうございましたという言葉の方がしっくりくる。
映画美学校を離れてからも、夢に何度か青山さんが出てきて映画を一緒に作っていた。
昨晩は久しぶりに酒を飲んで眠った。