対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

たまには裸足で歩いてみるといいよ

大分市美術館の緑の空間、ガラスの向こうにある緑が好きだ





 

 

橋というものはここでは決して、一個の既に現にある岸から、向こう側のやはり既にある岸へと架けられる物ではない。そうではなくして〈橋〉自体が全く同時に、そしてそのままの姿で、流れを軽やかに跳び越えつつ、流れの上へと垂れ懸かり、こうして両岸を初めて岸たらしめており、此方へ移り彼方へ越えという開かれたものを打ち開いているのである。

 

 

ヘルダーリンへの賛歌『回想』〉ハイデガー

保坂和志『鉄の胡蝶は記憶の夢に歳月に彫るか』保坂和志より

 

 

 

 

月曜日

中学校教師のAさんがフリースクールうかりゆハウスを訪問。

体育祭のため代休とのこと。

いろんな話を語らう。

いろんな大人が行き交って、好きなことを喋って、帰って行く場所であるといい。

まだここの場所は明確に定義されていないのだから。

 

 

 

火曜日

一度サルベージされた知床船が二度没した。

 

 

 

水曜日

生徒が休みなら、わたしたちも休み。

晴耕雨読ではなく、晴読雨読

「絵本de考えるカフェ」は延期にする。

 

 

 

一遍は選別しなかった。腐りきった人間社会の尺度を受け入れなかった。

一遍は女性や非人はもちろんのこと、貧民やハンセン病者も遊行に同行させている。

そして一遍は素っ裸だったらしい。

鉄輪にある銅像には立派な袈裟を着させられているが。

よく見ると足下は裸足だけど。

 

 

弱さを選ぶとは、既存の社会規範に背を向けることかもしれない。

アナキズムには弱さへの賛歌があるのだろうか。もう少し調べよう。

 

 

 

木曜日

90年代の東京の街頭インタビューを見る。

SMAP小室ファミリーが輝いていた頃、自分が上京した頃。

もうバブルは弾けていたけたけど街の人、街の空気、いや映像全体に勢いと喜びが

あって、そして何より自信が感じられる。一般の人も輝いて見える。

不況でも未来が信じられた時代、ということなのか。

 

 

 

 

 

金曜日

鉄輪温泉縁の一遍上人の本を読んでいたら、空也のことが気になり始めた。

一遍は「わが先達は空也なり」と言っていた。

六波羅蜜寺は何度も目の前を通りつつ寄っていないお寺だ。

次回京都を訪れた際はぜひとも立ち寄りたいお寺だ。

 

 

 

 

土曜日

私設のバラ園を見に行く。

すばらしい奇跡の場所。

ついで大分市美術館のルドゥーテのバラ銅版画も見て、

この日はバラ尽くしの一日だった。

 

 

夜眠っているときも、薔薇の彩色が頭の中を揺れた。

 

 

 

日曜日

欧州チャンピオンズリーグ決勝。 

リヴァプールは強かったが、合気道のようにその「強さ」を無効化していったのが

レアルだった。その技術の極み。

両者とも技術が極まっていたが、その在り方が違っていた。

よりレアルの方が広く大きく柔らかかったということか。

 

 

別府鉄輪朝読書ノ会の開催。

老いについて、

私も70歳80歳になって、あたらしい人生の始まりを喜びたい。

たしか合気道塩田剛三氏か植芝盛平だったか、

死ぬ前に今が一番強いと言ったのは。

 

 

 

はっきりしていることは、〈流祖の時代〉の刀法は、予測を許さない禍々しい敵手との百年の葛藤の末に生み出されたということです。そうした敵手を背腹に受け、脅しも、すかしも、厭がらせもしないものが、上泉伊勢守の刀法であった。彼の刀法がこの時代を制したことは、文化上のひとつの奇跡にほかなりません。制したとは、単にたくさん勝ったということではなく、勝つことの意味を変え、敵手を説得する「太刀(かた)」の価値を創造し、下克上を超える晴れやかな生の肯定をもたらしたということです。私が稽古する刀法は、このような一人の人物を明確にその起源に持っています。

 

『剣の思想』甲野善紀前田英樹