対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

「わからない」ことの希望



 

 

問題を特定するのではなく、問題を語りあうこと。

問題を個人で背負うのではなくネットワークで背負うこと。

 

『ナラティブと共同性』野口裕二

 

 

 

 

2022.6.6-12

月曜日

注文していた本がたくさん届いて嬉しい。

1ヶ月の上限をなんとなく決めているので、今月はこのあたりで終わりだけど。

 

午前中は少し雨が降って、午後からは気持ちの良い風が吹いた。

 

月曜日の読書会の新しい参加者の申込みが嬉しい。

 

『おらおらでひとりいぐも』はひとりの作家がこの世界に誕生した

ドキュメントでもあるだろう。

書くということ、他者なる言葉が受肉したドキュメント。

 

 

火曜日

歯科検診義務化の方針が政府によって示されたようだ。

歯科は治療の場ではなく、予防の場になればいいと思う。

歯医者に通うと言うことは、それ自体がストレスになりがちだけど

自分は歩いて直ぐの処にいい歯医者さんを見つけたこともあって、

虫歯のときではなく、チェックしてもらうために定期的に通っているので、

歯に対するストレスが少なくなったのは、ライフハックとしても重要なことだ。

 

 

夕方走る。汗を流す気持ちよさ。

 

 

水曜日

オンラインで高校生の英語を教える。

英語が苦手ということで中学英語から振り返る。

勉強することの楽しさが伝わるのが目標でもある。

 

 

木曜日

今日は調子がいまいち。

それが梅雨入り前とどう関係があるのかわからないけど。

 

 

 

金曜日

野口裕二『ナラティブと共同性』を読了する。

最近はいろんな本をつまみ食い読みしていたので、

完全に読み切ったというのは、それだけ強い手応えがあったから。

わたしは不登校や引きこもりといった「問題」を抱える人たちを前にして、

その「対応」のアプローチや方法として読み替え続けた。

今年一番の思想と方法の書かもしれない。

大量の付箋と「!」となった文章は書き抜きながら読んでいった。

たとえば、こんな箇所。

 

 

 

言葉によって固定された苦しみが、再び言葉によって動き出す。

 

 

それをあえて語りたくなるのは、そこに普通とは異なるなんらかの「意外性」があるからである。

 

 

自分の問題を自分で考える権利

 

 

問題の外在化

 

 

 

『ナラティブと共同性』野口裕二青土社

 

 

同時に斎藤環氏の『引きこもりはなぜ「治る」のか?』を読んでいたが、

この本とも響き合って、わたしのなかである思想のカタチがつくられていった。

 

これらかも何度も紐解き返すであろう実践の書。

 

 

 

土曜日

オンラインで問いかけるトレーニングに参加。

司会を任され、声がいいと言ってくれたのは嬉しい。

どの発現と関連付けているか示すというのは1つの方法。

対話が直線的でもそうでなくても使えるかと。

 

あと振り返りで、

Q どの質問で自分の考えが深まったのか、促進されたのか

Q もっとどういう質問をすればよかったのか

を考えてもらうというのもよかった。

 

論理的な思考の中で、仮説→実践→検証→修正仮説→実践…を

繰り返して現実の問題を解決。解消していくのは楽しい。

 

 

夜は野津原の吉熊川まで蛍を観賞。

真っ暗闇の中で蛍が儚く明滅していた。

カジカガエルの鳴き声も趣あり。

山を分け入ったところに鑑賞場があり、空気が濃く美味しかった。

電灯もなく闇もまた濃くて、目が次第に慣れるにつれ蛍も増えていった。

 

 

大分県も梅雨入りした。

 

 

 

 

日曜日

梅雨入りからの晴れ間。30℃近かった。

 

鉄輪の蒸し湯広場でマルシェが開かれる。

国東の農未来LABさんのつくった無農薬の「人生をかけたネギ」と卵を買う。

大のネギ好きなので、さっそくラーメンに刻んで食べたら香りが濃くて

シャキシャキして美味しかった。

 

英語の教材研究。

勉強はいつも楽しい。

 

 

人は子どもであれ大人であれ、なにかしらの「問題」を抱えていて、子どもでも大人でもそれを言語化(表現)できない場合はきついし、その問題から生ずる別の問題を大本だと捉え間違え、根っこの問題を隠蔽してしまうこともあり、そこに語り(対話)によって、問題に光を当て、一本の補助線として引き、ただ公に語り合うだけでも、私と問題の関係性が変化して、問題が(あるいは私が)後景に退くという経験はあるし、それはまさに対話の力だと思うが、そもそも対話をするための同じテーブルについて語り合うまでが非常に困難で、カウンセリングや占いなどは制度的にそれを可能にするのだろうけど、たとえば子どもをある流れのなかで対話の場に持ち込むというのはそれ以前の人間関係が問われることもあり難しいというのが、今の現在地。

 

 

夕方走った。自転車の小学生を抜いた。

 

スーパーボランティアの尾畠さんが、

下の駐車場で「わしは小学5年までしか学校行ってない」と語っていた。