6月のオン哲!(オンライン哲学カフェ)を開催しました。
今回は「人生はゲームなのだろうか?」をテーマに哲学対話していきました。
はじめに自己紹介しつつ、このテーマについて考えるところを参加者のみなさんに
聞いていきました。
・人生はゲームでなかったのに、ゲームになった
・ゲームに見立てたメタファー、その問題性に興味がある
・咀嚼しきれていない
・ゲームによくないイメージがある
・ゲームというからには、リアルとは違うという認識があるのではないか
・物語の主人公のイメージ
・人生が変わったのではなく、ゲームという言葉の方が変わった
・ゲームという言葉に意味の薄さを感じる。肯定できない感じ
・人生はゲームだとは言いたくない。クリアすることが目的になってしまう
・親ガチャとは、くじに外れた側の人が使っている。
・少しでも不幸を軽くするためにゲームという隠喩を使うのではないか
ゲームという捉え方にも個々人の差があったのですが、
特にそこは定義付けせず、対話を進めました。
(定義そのものが変わっていくことが大事だと考えているため。また皆一致する定義を決めることは難しく、有意義でもないため)
・介護の世界で、常に人に触れたり、重みを感じている私には人生がゲームという実感は湧きにくい。重みを背負うということ。背負えない人にいいものは提供できない。
・人生のヴァーチャル感。SFのような
・人生は勝ち負けのない試合
・メタバースとわれわれの生の関係はどうなる?
・ゲームは限定的な世界。人生はそうではない。攻略本は成り立つ?
・人生の不確実性について
・ゲームと遊び。創造性。可能性と現実性。
・わたしたちは遺伝子の乗り物。種という大きなゲームの中のミニゲームを演じている。
・ゲームという言葉のニュアンスには、ある数値を入れたら決まった結果が出るような、つまりシステムのなかで勝ち負けがすでに決まっていると思っているひとが使うのではないか。自分の不幸を引き受けている人は使わないのではないか。
・反出生主義とは、人生をゲーム的に捉えている人の極みであると思うが、私がゲームに抱くイメージには不確実性(乱数)は盛り込まれており、人生を一切皆苦だとする反出生主義者は、人生の期待値計算をマイナスで見積もっている。
・人生を理解することは難しいという前提があるかないか。不可解性、不思議、神秘的な部分もある。
・人生は謎である
・人生は分からないから、分かりたい、たとえたい、安心したいという心理があるのでは
・ゲームとギャンブルの違い
・現実から身を剥がすための言葉
・環境世界からの脱出、リアルさのつらさから逃れる、より超え出るための認識
「世界開在性」
他方、精神としての人間はおのれを超えでていける存在であり、それゆえそのつどの環境世界に閉じこめられることなく、世界へと開かれている。世界をもちうるという人間に特有のこの性質が「世界開在性」である。このような対象化ないし理念化を可能にする人間固有の能力を、シェーラーは「精神」と呼んだ。
私たちは、ずっと精神の話をしていたのかもしれません笑。
最後に認識が逆転した!と仰有られた方がいました。
考え方が当初とは変わっていくというのは哲学対話の醍醐味ですね。
ご参加ありがとうございました。
また来月もご都合よろしければご参加ください。