むしろ治療者の役割としての理想は、治療が進むと同時に、だんだん存在が希薄になっていくことでしょう。極論すれば、最終的には忘れられてしまうのが理想であるように思います。
『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』斎藤環
2022.6.13-19
月曜日
雨。
家の裏の解体工事がなかなかうるさい。仕方ないけど。
斎藤環氏の『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』を読了。
思想と方法のマッチング。どの言葉にも説得力があって付箋だらけになった。
これからもひもとき続ける書となるだろう。
・思春期以降の人間にとって、自信の最大のよりどころは、家族以外の人間関係です。
・土台が不安定なときほど、人は土台にしがみつくものです。
・会話で大事なことは、相互性と共感性です。
・ルールとしつけは180度異なった方向性を持っている。
・「治療の享楽」への禁欲
・変化より現状維持を重視する
・本人の今の状況は、しばしば、かなりの努力によって維持されていることを忘れてはいけません。
・変化の方向づけを意図的にしすぎると、かえって抵抗が生じてうまくいかない場合もあるのです。現状維持を積極的に評価することは、逆説的ですが、変化を呼び起こす一つのきっかけになり得ます。
・「自己愛の病理」という言葉は、専門用語による非難の言葉です。要するに、単なる悪口です。残念ながら、この言葉が最もよく使われているのは、治療者が患者に対して、何らかの「嫌な感じ」をもっているときのように思います。
・一般に、観察できる人は関係できないし、関係できる人は観察できないという限界があります。
・「意外性」の効用。「快い意外性」。フレームを変える、ものの見方を変える。
・頭の中を複雑にしておく
・初回面接では、あまり最初から何もかも聞き出さないということも大切です。
・心には形がありません。物理法則に従うような構造もありません。だからこそ、心に関する理論は、どんなに優れたものであっても、すべて仮説です。仮説だから頼りないのではなく、仮説だからこそ「使える」のです。
『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』斎藤環
火曜日
雨。
きのうからオカユも私も落ち着きなく、これは地震が来るのではなかろうかと
夜に教育関係者の集い、オンラインで意見交換。
教育者になることを断念した学生さんから、
国はあるいは学校は、どんな人間をつくりたいと考えているのか、
という問いが出た。そこの議論がないと。
水曜日
しとしと雨。
世界一周をしたときの話をみんなで聞く。
夜はオンラインで高校生に英語を教える。
教える側が一番勉強になるのはあるある。
アメトーク。
笑い飯の哲夫さんは大学で哲学を学び、
今は無料塾を開いたり、農業をしたりと自分が目指す方向と似ていて励みになる。
木曜日
久しぶりの晴れ間。
(業務連絡)
以前「絵本de考えるカフェ6.22」にお申し込みいただいたU.Mさんから
再び申込みのメールが来てしまって、、ということは以前の返信が届いていない
ということなので、ヤフーメールやらメッセンジャーやらいろんな方面から
送り直したので、ご確認してください。
22日15時前に自由に鉄輪うかりゆハウスに来られて構いませんので。
場所はホームページにも記載しています。よろしくお願いします。
【【業務連絡】】昨日申込みメールを送っていただいたU.Mさんへ - 対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス
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金曜日
暑いなか走ったら軽い頭痛がした。
体温上昇が激しかった。
夜、イエシロアリが出没。鉄輪にシロアリは多いと聞いていたが。。
土曜日
テーマは「人生はゲームなのだろうか?」
新しい参加者も来てくれて、深い対話ができたように思う。
日曜日
朝からこども哲学の時間を開催。
哲学や対話に関心のある方が集まってくれて嬉しい。
あとはもっと子どもが来てくれるといいのだけど。。
午後からは鉄輪の冨士屋ギャラリーさんでむし湯サミット。
石菖について1時間半くらい話を聞く。
サウナが今ブームなので、むし湯も注目されるといいけど。
(といいつつ近所すぎてまだむし湯に入ったことがない私)
京都高台寺の夜咄茶という究極の茶会の場で蝋燭の煤を浄化する石菖が
床の間に活けられるという話に感心した。
高台寺特別茶会『冬の夜の茶会 夜咄(よばなし)』のご案内 (2020-09-25)
夜は、急遽シネマ5で今日限り上映の大分文理大学生によるドキュメンタリー映画6編を見る。ドキュメンタリーは撮る側の倫理が強く問われる(対象との緊張関係)ジャンルだと思うが、唯一そこに意識的だったのは、「命の花壇〜或るいのち達の記録〜」。これは大分動物愛護センターから殺処分場に送られる犬猫、そして実際に殺されていく場面を無修正でとらえた作品である。命の花壇とは動物愛護センターの前にある花壇で、そこには肥料として殺処分された犬猫の遺灰が撒かれている。目を背けたい現実を直視することを促す映画、その厳しさがこの映画の倫理そのものであったと思う。
映画館に入る前はまだ明るかったのに、出たときには夜の闇に包まれ小雨も降っていて、映画の余韻そのものが情景の変化につながったような、名状しがたい感情に負う。映画館の闇と不思議と呼応した世界の情景。