対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

私は私自身を救助しよう。

「自由な泳ぎ手 24」Wolfgang Tillmans , 2003

 

 

 

 

私にとってたとえそれがどのような旅であろうとそれはいつも北へ向かってゆくものなのだ。間章

 

 

 

毎日、毎日が祝福だった。

クリシュナムルティ

 

 

 

2022.7.4-10

 

月曜日

あたらしく来た生徒さんとネコのオカユが気があって、いきなり膝に乗る。珍しい。

どういう選択基準なのかわからないが、みんなの膝に乗るというわけではない。

自分も野良だったオカユと出会って間もなく膝に乗られた。祝福された。

 

 

火曜日

台風通過。

雨は激しいが風はない。

 

オンラインで誠品書店主催の「アナキズム大放談!!!栗原康×五井健太郎×森元斎」を

視聴する。富永太郎という詩人を知る。

 

 

繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

 

「秋の悲嘆」富永太郎

 

 

 

 

また周期的激発性という言葉も知った。

 

実は、労働するとは、だれかがじぶんの時間を買ったことだ、だから、その時間内は労働をしなければならない——たとえすることがなくても——という発想は、けっして普遍的なものではありません。それどころか人類の歴史のなかでは、きわめてマイナーな、しかもごく最近生まれた「常識」であり、慣習でしかありません。

それでは、より普遍的な仕事のあり方はどのようなものか。それは「周期的激発性」といわれるようなものです。

つまり、仕事にふさわしいとき、それが必要なときに集中的に仕事をして、それ以外は、ぶらぶらしているとか、好きなことをしているとか、寝ているといったありようです。

 

『ブルシット・ジョブの謎』酒井隆史講談社現代新書

 

 

元気や勇気の出る語らい。アナキズム。全3回ということで、楽しみだ。

 

 

水曜日

雨、湿気。梅雨の戻りか。

 

米津玄師「パプリカ」をみんなで歌う。

シンクロナイズして歌うことは、気持ちがいい。

別々の人生、別々の時間を生きてきた者が一瞬交差するというのは大袈裟だろうか。

 

 

木曜日

七夕。

夜にオンラインで誘われてオクダさんという方の哲学対話に参加する。

あげられた問いの全てを皆で考えていくというのは斬新だった。

 

 

 

金曜日

別府の鶴見岳伽藍岳の噴火警戒レベルが上がる。

 

 

昼に安倍元首相の銃撃の報、そして夕刻に死去の報。

これもまた別々の人生、別々の時間を生きてきた者が交差した一瞬の出来事なのだ。

遠くにあった因と果が、ある任意の一点で引き絞られ、またそれぞれに散ってゆく。

 

 

今日はうかりゆハウスにたくさんの人が来た。

忘れられない一日になるだろう。

 

 

土曜日

 

日本の哲学対話などで意見の否定を人格の否定に捉えがちであることと、故人の残した負の遺産は問わないみたいな風潮はどこかで繋がっているかも

 

というツイートをした。

 

 

夜にオンラインで哲学カフェを開催する。

テーマは「笑いに傷つきや痛みは不可分なのか」について。

 

参加者の発言を聞きながら、

文脈を読んで発言をすることと空気を読んで発言することの違いについて考えた。

 

またこのオンラインでの対話の会ではZoomを使っていて、

基本PCでの参加を推奨しているのは、いろんな人の表情を画面から読み取れ、

それが対話的だと考えるからで、スマホでの参加の場合、それは著しく制限され、

ノローグのようなものになってしまうのではないのかという危惧から。

 

文脈を逸脱し、モノローグな振る舞いだと感じる発言があったため、

長年の参加者だったこともあり、念のため注意した。

 

 

 

日曜日

選挙。

選挙速報をみながら絶望感(とかすかな希望)。

 

 

数を競い合うという政治、選挙の仕組みはこれからの世界には

もう合わないのではないのか。だったらどうしたらいいのか分からないが。

 

 

ジャカランダの木

 

 

 
そして自らのなくした風景をなつかしむこともなく、〈今〉の最中に〈過酷なやさしさ〉を見出せるはずなのだが。