対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

物への信仰告白

 

 



 

 

普通は空気と総称される物質にも固体化に向かう極小の傾向があり、動物と呼ばれる生命体にも周囲に浸透していく気体状の深さがある。

 

セザンヌ 画家のメチエ』前田秀英樹

 

 

 

 

 

2022.9.5-11

月曜日

小学生のうかりゆ見学。

発露するエネルギー、好奇心、想像力、創造性、、

いつからわれわれは子供でなくなるのか。

なにが子供でなくしているのか。

 

 

中秋をすぎても月はきれいなまま。

 

 

 

火曜日

絵本de考えるカフェを開催。

翻訳の違う同じ作品を比べながら読み聞かせをして鑑賞していく。

訳の違いによる、印象の違いを的確に述べていて驚かされた。

 

 

夜はオンラインで学校教育関係者の集い。

人の意見を聴いている中で感情的になる局面があり、

自分の意見とは違う場合でも、いったんは受け止めないといけないし、

それが許されるなら、安心・安全の場は崩れるだろう。

理解ある大人たちの間でさえ、対話の困難性というのがあらわれる。

いや、対話とはそもそも困難な営みなのだ。

 

 

水曜日

小2のエネルギー、パワー

学校では輝けない。

学校は解放へと向かわない、閉塞へと向かう。

日本はもう小手先の改良では輝く方へは向かわないだろう。

多くの税金とマンパワーとインフラを使って、

膨大な硬直へと心血を注いでいる。

ここかしこにカフカ的な世界が広がっている。

 

 

ゴダール死去の報。

尊厳死を選んだ。

ゴダールは10代終わりから20代前半のおれにとっての青春のすべての一つであった。

ゴダールの映画を見ていない人とは語る言葉がなかったくらいの。

ゴダールも死ぬという事実に、時間のすごみを感じた。

 

学生時代三鷹に住んでいた頃、駅前の半地下にアコムがやっているレンタル屋さんがあって、その当時はすべてVHSなのだけど、ゴダール作品のたとえば「勝手にしやがれ」とか後期の「決別」が置いてあって、何度も借りて見た。今でこそ、ゴダールの作品は簡単に見られるけど、25年前くらいの当時はその機械は貴重だった。そのアコムレンタルショップには気概を感じられるラインナップで、AV作品は置かずになかなか見られない名作をたくさん置いていた。たしか監修に水野晴郎がついていた。やがて時は経ち、経営的にAV作品も置くようになって均質化していき、いつの間にか閉店してしまった。こういう局所的な文化の芳醇はもうどこにもないだろう。

 

 

木曜日

外で走り回る。

小2の子のクリエイティビティ。

なんでも遊びにする。

学校にはこういう余白がない。

 

 

セザンヌの林檎の奥行きと小津映画の壺の奥行きは、響き合っている。

わたしたちは「物」についてまだ何も知らない。

ようやく哲学が追いつこうとしている。

 

 

金曜日

ひろゆき氏が、国葬反対者に対して、葬式を否定するのは人間としてどうかと思うとか言っていて、意図的なのか国葬と葬式を混ぜて語っている、つまり話の本質がすり替わっている。こういうのは(非常に簡単な)論理、レトリックの問題であるし、日本の学校では習わないが、海外ではしっかりするものの一つ。

 

鉄輪温泉渋ノ湯の秋の大掃除を手伝う。

みなさんお年寄りばかりで、わたしも若いとは言えないが、

このなかでは圧倒的に若く、かわいがられ、終わってお寿司とビールをいただいた。

 

 

 

土曜日

うかりゆハウスの部屋の整理整頓を進める。

片付けというのは命懸けだ。

時間はいくらあっても足りない。

 

 

 

日曜日

台風のため、アートde対話型鑑賞をオンラインに切り替えて開催。

緊急避難情報のアラームが鳴るなか、同じ絵画を見、問いを差し出し、

その世界を共に冒険した。

わたしは読書会と同じく、対話型鑑賞もできれば画家の目と同じ、

あるいはそこに少しでも近づいていくことをしたいと思っている。

 

 

台風14号の直撃。

たしかに体験したことのない風の強さと雨の多さ。

窓が風圧で割れるのではないのかという勢い。

 

夜は音が激しすぎて眠れない。

こういうとき頑丈なマンションがいいなと思ったりもする。

 

家の裏側というのは谷のポケットになっていて、

ほとんどそこはひっそりと無風で、それを猫と確認した。

 

 

 

 

そうした作品には、自然が、その複数の本質を分岐させ、土や空気や植物の産出に赴こうとする、その屈折点の爆発的なきらめきがある。

 

色面の反響のなかに、事物は顕われ、また後退する。事物が退くほど、色面が発する感覚の強度は高まり、絵は見る物を圧する。顕れるほど、画面は静まり、在るものの喜びが色となって満ち渡る。

 

セザンヌ 画家のメチエ』前田英樹