Nagasaki , 2010
意拳は実際の組討の中で、往々にして「只一下(ただ一撃)」で戦いを終える。この意拳の奇異な現象を、多くの人は「奪力一摶(すべての力を振り絞って殴りかかる)」、「孤注一擲(すべて運に任せて一息に勝負に出る)」などと理解し、甚だしきに至っては「瘋狗精神(狂犬精神)」などと言う者までいる。実に、無知の極みである。ただ意拳がこのような現象を生じるのは、意拳がすでに判断式の偶然性の結果から、完備式の必然性の結果に入っているためである。
2022.1.9-15
月曜日
毎年年賀状のやりとりをしていたかつての職場の同僚からのが今年はなかった。
心配ではあるが、年賀状以外の連絡の取り方しか知らないので、また来年を待つ。
火曜日
こどもたちと書道してからは、折あれば書道道具を出して墨で字を書いたりしている。
長らく石川九揚氏のファンで見る専だったが、
スキーが夏に水泳が冬に上手くなるように、
眠っている間に上達の芽が生えていたらしい。
游という字を何度も書いていたら、「子」という字が入っていたことに気づいて、
とても気に入った。
水曜日
等身大の自分と出会うというのはある種の苦痛であり、
また成長の起点でもあり、幼年期の終わりでもあるが、
それが回避できてしまう環境にいると、そこに留まり続けるこどももいる。
大人でもそういう人がいるだろう。
学校は、否が応でも自分の等身大と向き合わなければならない環境であるだろう。
つまり、他人との比較を通して。
自他共に否定できない等身大の自分を、むきだしの自分を見せつけられる。
そのうえで意気消沈するのか、目を背けるのか、果敢に火を付けていくのか。
木曜日
対立する意見があり、
どちらか(わたしの側)が正しいから従わせるということではなく、
100%白黒つかないことは、双方の意見を尊重する、これが大前提。
自分に都合の悪い情報は無意識に捨象してしまって、
歪めた「現実」を「信じる」ことは知性でも対話的でもない。
知性は自分の正しさを論証するうちにはなく、
自分はもしかして間違っているのではないのかという問いとともにある。
金曜日
コロナ茶番という言葉がトレンドにあがっていたが、
政府(戦争)というのはそもそもが茶番でしかあり得ないというのが、
文学的常識ではないのか。
土曜日
雨の音を久しぶりに聴く。
あたたかい。
日曜日
目覚めたら、高橋幸宏の訃報に触れる。
YMOのなかでの彼の立ち位置は私のある精神の形をもたらした。
20年以上前になるが、吉祥寺のパルコにユキヒロタカハシコレクションの服が
置いてあって、痩躯の私のサイズ感に合う細身のデザインが多く、買い求めた。
社会に余白や弾力性がたくさんあった、いい時代だったと思う。
そのような象徴としてもわたしの中の彼等はあり、その一角が亡くなったことに
無量の寂寞を感じた。こういうのを友と呼ぶのではないのか。
さようなら。
明日鳥好きの少女と物語の創作をする。
神域一帯が野鳥の森とされていた。しかし、一羽の野鳥も目の前を過ぎないことに、私はいっこうに不審を抱かず、むしろいっそう、そこが野鳥の森であることを感じていた。
『鳥を探しに』平出隆