対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

汗牛充棟

 



 

 

汗牛充棟コトバンクより)

本が非常に多いことのたとえ。

[使用例] その原書の由来と説明とは、いわゆるファウスト文献、一層広く言えばギョオテ文献があって、その汗牛充棟ただならざる中にいくらでもある[森鷗外*訳本ファウストについて|1913]

[使用例] 小杉未醒が当時雑誌や単行本で「かきまくった」ものの数は、汗牛充棟もただならないとよくいう、正に今これをぞっくりと目の前に積まれれば、驚くべき嵩になるだろう[木村荘八*小杉放庵|1949]

[使用例] そのようなわけだから、私は汗牛充棟の読書論に、さらに新たな論を加えようとは思わないし、いまさら加えるべき何ものも持ち合わせていない[森本哲郎*読書の旅|1981]

[解説] 出で久く根ね達たつ郎ろうさんの直木賞受賞作「佃島ふたり書房」に、「汗牛書房」という古本屋が出てきます。汗をかいた牛、という店名は奇妙ですが、これは「汗牛充棟」から来ています。


 唐代の柳りゅう宗そう元げんの文章「陸文通先生墓表」にあります。「歴史書『春秋』に関する書物は世間に多く、積み上げれば建物を満たし(充棟)、荷車に乗せれば、牛馬が汗まみれで引いていく(汗牛)」。


 ここから、「汗牛充棟」は「あるテーマについて書いた本が、世に満ちあふれている」という意味で使われます。例文の[訳本ファウストについて][読書の旅]はその意味で解釈できます。


 また、例文の[小杉放庵]にあるように、「著作が多い」という意味、あるいは、「蔵書の数が多い」という意味でも使われます。冒頭の「汗牛書房」は、たくさん本がある書店という意味です。


 「汗牛充棟」という漢字から、汗まみれの牛の群れが建物の中に犇ひしめいている、異様な光景を連想する人がいます。もちろん、これは誤った理解です。

 

 

 

2023.1.23-29

月曜日

極寒のなか、こどもたちと走り回った。

 

 

火曜日

十年に一度の大寒波到来。

大雪。地面が凍る。怖い。

子どもたちは大喜び。

深夜までサイレンが鳴り続ける。

静寂のおとずれ。

ひたひたと雪が降る。

 

 

水曜日

極寒

昨晩の強風が台風一過のようで、空が澄み渡った。

寒いけど気持ちいい。

どこまでも走る。

 

 

木曜日

今日も極寒。

鍋と温泉がおいしい。

どちらも染みわたる。

 

 

金曜日

書における四宝。

筆、紙、墨、硯。

 

最近気に入った書道具店を見つけて、

立ち寄ってそれぞれをながめてみる至福の時を得る。

 

四宝と人の技と心が奏でる芸術。

一式セットで買った硯がプラ製でしょぼかったので、

羅紋硯という安価だが石でできた硯を購入した。

楕円形が味わい深い。

 

 

 

書をする友人に話を聞けば、墨をすることに愉楽を見る人と

墨汁でもOK、その分書く時間にあてようという人に分かれる。

 

 

石川九楊氏はこう語る

液体墨や墨汁は基本的に使ってはいけません。墨をするのが面倒だとか、時間がないという人は、書をやめたほうがよいでしょう。なぜなら、墨をすりながら書の構想を練ることとは別に、墨と硯面の接触感覚を味わうことがすなわち筆と紙の接触感覚を研ぎ澄ますことにもなるからです「書ほど楽しいものはない」

 

 

 

土曜日

書は筆が違えば、紙が違えば、墨が違えば、全く別物として感じられてしまう。

適切な筆を選ぶためには、適切な紙と墨がいる。

適切な紙を選ぶためには、適切な筆と墨がいる。

適切な墨を選ぶためには、適切な紙と筆がいる。

すべては適切な関係性の中でしか判断できないことに気づいた。

 

 

日曜日

別府鉄輪朝読書ノ会の日。

寒いのに多くの方がわざわざ鉄輪まで集まってくれる。

感謝。

 

今日みなさんと読んだのはブローティガン『愛のゆくえ』

わたしもブローティガンの夢想した図書館のようなものを、

この地上に作りたいのだ。文字の上であれ、世界と拮抗する力をもった。

 

 

 

瞑想のなかに平和がある。瞑想自体がその動きだ。それは発見されるべき目的地ではない。思考とか言葉によって組み立てられたものではない。瞑想の行為が知性だ。瞑想は、あなたがこれまで教えられてきたことや、経験してきたことではない。学んだり経験してきたことを捨てるのが瞑想だ。経験する者から自由になることが瞑想だ。

 

クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ

 

 

 

書と瞑想を近づけたいと思う今日このごろ。

あるいはクリシュナムルティの「瞑想」という言葉を「書」に置き換えてみる試み。

 

いくつ年を重ねてもあたらしい発見があり、見たことのない地平を見られるというのは

どんなに素晴らしいことだろうか。生きていてこれ以上のことはない。