対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

雨の木

 



 

こんな切れっぱしでわたしはわたしの崩壊を支えてきた 

 

『水死』大江健三郎

 

 

 

 

 

2023.03.13-19

月曜日

大江健三郎の訃報をツイッターで知る。

未踏の地を歩くときに、かすかにいくあての目印となる星のような大きな大きな存在。

魂の問題をこれほどまでに文学の射程として考え書いた文学者は少ない。

読書会でも再びとりあげよう。読むことが唯一の追悼になるだろう。

 

 

 

火曜日

12年前の3.11のときの映像を見ると、既にけっこうな「古さ」を感じる。

映像の質感や人々のあしらいようなディテールにもすでに「時代」を感じる。

でもどうにも、今の新しさに貧しさを感じてしまう。

昔はよかった感が年を追うごとに強まっているのは老いによるものなのだろうか。

 

 

水曜日

きのうのフリースクールでの「よのなか」の授業では、

本の森林環境と木の文化の話をスライドを使いながらした。

下は小学校低学年から上は中学生まで、それぞれに刺さるように語っていくのは

難しいが、「わかりやすさ」に注意してスライドを作った。

 

教育に於ける「わかりやすさ」とは何だろうか。

こちらが口に含んで噛んで咀嚼した物を口移していくことなのだろうか。

職人は弟子に教えない。只おれのすることを見ておけという。

安易な質問も弾かれる。

これはたぶん師をあるいは現在という時代を超えるためではないのだろうか。

甲野善紀氏が、教わってしまうとどうにもそこを乗り越えるのが難しくなると

自身が「習った」合気道について語っていたのを思い出す。

子どもは分からなければ興味を持続することは難しい面があるので、

ここをどう考えれば良いのか。

 

あとスライドによる教育は学びにはならないというある老教授の意見も分かる。

板書を見ることの体験とスライドを見ることの体験は別種だ。

後者は限りなくテレビを見るように受け身に近いものだから。

板書にはいろんな余白がある。

書いている間の時間とか、書かれている間に生起するものとか。

その余白に、見えない学びがあるのだろう。情報ではないのだから。

 

 

木曜日

地元の高校生と市民で〈地域〉について考えるファシリテーションの依頼が来て、

嬉しい。企画を構想していこう。

 

 

金曜日

曇り。

探究学習の資料収集のため久しぶりに県図書へ。

さすがに県図書は質、量が違った。

併せて石川九楊の本も借りる。

 

 

土曜日

彼岸入り。

お墓参りの風景。

雨。

墓所にある楠も濡れる。

 

 

健康診断。

バリウムは慣れない。

気持ち悪し。

 

 

夕方からは和やかに晴れていった。

永遠のなかに危うさも感じるような春の夕景が好きだ。

 

 

日曜日

只管に本を読み続ける日曜日。

積ん読に再読にと死ぬまで続く本とのダンス。

 

 

 

 

僕はTさんが完成した「雨の木(レイン・ツリー)」を主題とする音楽を、初演の演奏会で聴いた。そこが音楽会の会場である以上、僕は精神と肉体の全力を注ぎこんで(こういう書き方を、——ああ、例の大袈裟なやり方だと、若い批評家にいわれそうにも思うが、僕としてそれを、いくばくかのユーモアの自覚とともにやってきたのであることは、いいたい気もする)音をたてぬよう終始したのであったが、はじめから涙が流れつづけた。隣の椅子の妻は、いぶかしげに、やはり音なく身じろぎするようだった。若いわれわれは理解しあって結婚し、共通の、大小の苦難に立ち向かってきたわけだが、しだいにお互いのうちに、理解不可能なかたまりの所在を発見するようにもなっている。しかもそれがわれわれを離叛にみちびくのとは逆であるところに、やはり人が死にむけて年をとることに不随しての発見がある。

 

『「雨の木」を聴く女たち』大江健三郎