自己が多声的であった思いを、自分の声としてある意味で専有していくのは対話の過程の中である。
『人は語り続けるとき、考えていない』河野哲也
五月の哲学カフェ大分を開催しました。
今回はいつも私がテーマ決めをしているので、みなさんから問いを集めて、
メインとなるものを一つに絞って、哲学対話しました。
みなさんの考えてみたい問いは以下のものでした。
・なぜ哲学カフェに自由を感じるのか?
・なんのために生きているのか?
・人はなぜ問うのか?
・耐えるに値する困難とそうでない困難の違いは?
・神様はいるのか?またはいると思った方がいいのか?
・思考のなかにおける対話の空いてとは?
・役割があった方が人は生きやすいのか?
・人の強さ弱さって、何だろう?
どれも深めてみたい問いばかりでしたが、一応主軸となる問いを決めたかったので、
投票したところ、
Q 人はなぜ問うのか?
というメタ的に問いを問う問いが選ばれました。
自分の思いや思考を問いの形にするのが苦手な方がいるのですが、
問いは他者との通路になるので、哲学対話はそこが肝心要で、
ひとつのトレーニングだと思って、問いの形をつくってほしいと思います。
そこで文と人がリンクすると思います。
そこが一人でする対話、思索とは大きく違うところです。
(私は最近、対話中にメモを一切とらなくなって、それはつまり哲学対話というのをロジカルなもの左脳的な活動であると建前では思いつつも、言い淀む言葉やためらい、行き交う声の響きに豊かさを感じることが多く、対話を右脳的なもの、感覚・感情として捉えたいという欲求があるからです。ということで何が語れたかはこのホワイトボードを見返すしか在りません)
問いに問いが重なる
問いが怖い、深まるのが怖い
公に問えない問いもある
私的な問い、私の母への問いとか
また問う場や相手を選ぶこともある
問いに蓋がされる
なぜ問えないのか
問いを禁じられている
問いが奪われている
「わからない」が言いにくい社会
バラバラであることを認めることで逆説的につながる
選ばれなかった問いが置き去りにされるというわけではなく、自身の関心に紐付けられながら、問いが重層的に往還されていったのが味わい深かったです。
ご参加ありがとうございました。
また対話の場でお会いしましょう。
わたしの好きな鷲田さんの言葉をのっけます。
(帰りに街の角っこの小さなスペースに座り処ができていて、これぞ余白!と思いました)