対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

あっは ぷふい

 

 

 

 

有る程の菊投げ入れよ棺の中 漱石

 

 

東京時代に少し親交のあった中村靖日さんが亡くなられたとの報をヤフーニュースで知る。まだ無名だった頃、一緒に中央線で帰って映画について戦争について語り合ったのは20年前くらい。俳優もやり監督もしたいと言っていてわたしより随分先を走っていて嫉妬をした思い出があります。でもとても気さくで謙虚な方でした。ご冥福をお祈りいたします。

 

 


福田平八郎の作品を浴びるように見て、その静物画に於けるセザンヌやモランディとの決定的な違いを考えた。それは「物」をどう見るか(どう受け取るか)の違いでもある。形態と色に魅せられたというのだろうか。ただモランディやセザンヌ静物画のように物質の奥行きに精神性を見るというのではなく、あくまで純粋形態にとどまる。マーク・ロスコのデッサンがあったけど、どう感じたのだろうか。後期展示も楽しみでこのあたりを考えていきたい。

 

OPAMでの福田平八郎展後期の部に行く。デザインすれすれの余白とリズムの緊張感、永遠と一瞬が同じ相であることが描かれている。漣も鯉も菊もすばらしくしばし佇んでしまう。たがそこに物質の奥行きにある精神に突き当たることはなかった。日本画のマチエールによるものなのか。これはユーモアなのか。セザンヌには唯物論的ユーモアはない。一神教と自然。
 
ただこの絢爛さを味わえば良いのだとも真剣に思う。たくさんのグッズを買ったし、とても楽しかったことは、画集では味わえない唯一無二の体験であった。

 

二十八回目の坐禅。坐るが完成、坐ること自体が目的。とまる。浮き立つ思考は泡のようなものとして見る。思考がわたしなら、わたしは泡にすぎないのだ。
 
来週は4回も哲学対話のファシリテーションがある。思考を進める哲学対話と思考をとめる坐禅と、なんということだ!ハワイのこども哲学者、Dr.Jの源流に瞑想者クリシュナムルティがいることだけが小さな灯りで、わたしの探究は続けられる。ファシリテーターでありつつ探求者であるよう、わたしを更新していきたい。
 
 
三十回目の坐禅。高い湿度のなか、ときおり吹く冷たい微風に癒やされる。夏の光、葉の照り返し、音も前景に後景にひいていく。客観こそが内面で、主観は外面にある。そして奥行きの方には時間はない。そのときの仮死を生きているのが坐禅ではないか。ヨガの瞑想と違って、禅の瞑想が目を瞑らないことの意味はここにあるのではないかと仮説を立ててみる。
 
海外の方と英語で話す。お地蔵さんの首周りについている赤い布についての質問。赤ちゃんを守る赤ちゃんじゃないお地蔵さんが赤ちゃんのヨダレカケをつけているのは、確かに興味深い。
 
英語で日本に来た禅や瞑想に興味のある海外の方と哲学対話をするのが夢。DMM英会話に入るか迷う。合気道もしたいし。しぬまでにやりたいことのすべてやる。
 

はてなブログプロをやめた。わたしには必要なかったようだ。

 

夏。健康診断。強烈な熱さとともに夏の情緒を感じにくくなった。

 

こどもたちとの哲学対話。

わたしの方からこどもたちに開眼させられる。

こどもは近代以前は「ちいさな大人」だった。

 

 

Als das Kind Kind war, wußte es nicht, daß es Kind war, alles war ihm beseelt, und alle Seelen waren eins. 


子供が子供だった時、自分が子供だと知らず、全てが自分にとって魂の込もったもので、全ての魂は一つだった。

 

Als das Kind Kind war, war es die Zeit der folgenden Fragen: Warum bin ich ich und warum nicht du? Warum bin ich hier und warum nicht dort? Wann begann die Zeit und wo endet der Raum? Ist das Leben unter der Sonne nicht bloß ein Traum? Ist was ich sehe und höre und rieche nicht bloß der Schein einer Welt vor der Welt? Gibt es tatsächlich das Böse und Leute, die wirklich die Bösen sind? Wie kann es sein, daß ich, der ich bin, bevor ich wurde, nicht war,und daß einmal ich, der ich bin, nicht mehr der ich bin, sein werde?

 

子供が子供だった時、こんな疑問を持つ時があった:
なんで僕は僕で、なんで君じゃないの?

なんで僕はここにいて、なんでそこにいないの?

いつ時間は始まって、どこで空間は終わるの?

太陽の下で生きているのって、ただの夢じゃないの?

僕が見て、聞いて、嗅いでるものって、この世界の前の世界のただの幻じゃないの?

実際に、悪いこととか、本当に悪い人たちとかっているの?

僕である僕が、僕になる前には、いなかったって、どうしたらありえるの?

そしていつか僕である僕が、もう僕じゃなくなるなんて、どうしたらありえるの?


Als das Kind Kind war, warf es einen Stock als Lanze gegen den Baum, und sie zittert da heute noch.


子供が子供だった時、枝を槍として木に向かって投げた。
そしてそれは今日もそこで揺れ動いている。

 

 

映画「ベルリン・天使の詩」より

 

 

 

書。筆とひとつになる。筆の前に道はない。

 





風蘭さんの書道教室。今月は顔真卿の「顔氏家廟碑(がんしかびょうひ)」七八〇年。晩年七二歳の作。
 
石川九楊氏によれば、顔真卿から書の文体の誕生、書いた人の存在が書に刻まれる新たな段階にとある。書は人なり、人は書なりといったところか。
 
書いてみて特に「之」の筆を裏側にくるりと回転させて払うのがむずかしい。その動作と筆跡と。墨を沢山使うので書き切った感がある。この力強さに合うだけのエネルギーをこちらに求められる。力強さ、熱さ、生命感、肯定感、意志への力。自分なりに飲み下せるには途方もない修行が必要だ。
 
1枚目が最後に書いたもの。2枚目が最初に書いたもの。3枚目が臨書する顔真卿のもの。
 

それにしても上野の石川九楊展にしぬほどいきたい・・地方の文化資本・・

 

教えているハーフのこどもが夏に故国に帰る。帰っても日本語を忘れないでねと言うと、「僕は日本人だから、日本語を忘れるわけないよ!」と言ってきてたいへん感動した。

 

読書会、満席になる。『砂の女』は世界文学の普遍がある。すばらしい

 

最近は大分市坂ノ市にある〈何者でもない食堂〉というのが気になっている。コンセプトがステキで。。