対話的合理性に必要とされるのは、一方で人を結びつける共感と愛であり、他方で、笑いである。
『人は語り続けるとき、考えていない』河野哲也
大分合同新聞社のGXエデュケーションから哲学対話についてのインタビューを受けた。
ライターさんは以前UEMURA BREADさんで開催した哲学対話に参加された方で、そこで受けた実感を基に聞かれるので、なんというか芯を食うインタビューというのか、とても素晴らしい語らいの時間だった。2時間半近くも話して、わたしもいろいろと整理できるものがあった。このライターさんは映画美学校の4期生で1期生のわたしとはどこかですれ違っていたかもしれないが、美学校から遠く離れた大分での深い縁を感じた。
哲学対話について学ぶにはまず体験してみなければ、いくら本や参加者の話を聞いても自分のなかに火が灯ることはない。ただそのためには〈良い対話〉を体験する必要がある。いろんな〈良い〉があるし、再現が難しいその場限りの〈良い〉ばかりだ。〈良い〉を再現するためのルールがあり、ファシリテーターの存在がある。
・あたたかさ
・フラット、ニュートラル(説教のなさ、絶対のなさ、評価のなさ)
・自己開示(他者の自己開示を聞く)
・笑い
インタビューでライターさんが「言葉をのみこむと思うが考えるにつながる」みたいなことを話していて、興味深かった。
最後記者さんに「哲学対話のエッセイが書きたいんです!本を出したいんです!」と言ったら、いろいろとスタイルを提案してくれて、盛り上がり前向きに検討してくれるようだった。
大きな地震。死を意識する。
やりたいことをすべてやる。
残り時間はあまりに少ない。
「空振り上等で地震に備え」をという言葉に出会う。
空振り上等というのが面白い。
かなしいことや辛いことがあっても、朝は坐る。
人や組織でタッグを組んで何かを進めること。
そこに権力が起きてしまうこと。
説教や評価があり、あたたかさがなくなり、笑いもなくなる。
哲学対話は一瞬そこを停止させる。
坐禅も手放すことに属する。
それは一瞬だけの余白であるかもしれないが、その余白がほかの日常の時間に光を当てる(かもしれない。)
いろんな人と話す。
話が通じる人と通じない人、あるいは通じなくなった人、通じるようになった人。
違いはなんだろうと考えると、「大切にしたいもの」が重なっているかどうか
ではないのかという1つの仮説を立ててみる。
これがズレていくともうバラバラになってしまう。
でも大切にしたいものが同じかどうかって難しいものがあるとは思う。
放浪への憧れが消えた。
放浪というより蒸発か。
もしかして哲学対話というそのたびごとの冒険が放浪の感覚に似ているのかもしれない。
そういう意味でも愉しい。