破夏として母と歩む孔雀かな 「霊果」安井浩司
終戦へとむかうお盆のこの時期が好きだ。
内省的でありたいと思う。
いろんな意味で。
父と母の背中をみるのはあと何回だろうかとも思う。
私自身もこの坂を歩くのは何回だろうかとも思う。
この一週間の夏休みのような時間に、
依頼を受けた哲学対話のエッセイの構想や来週の先生達向けの研修の内容を考え、
構築していた。夢中になって、時間を忘れて没頭する。
努力は夢中にはどうやっても勝てない。
創造性、新規性、構成の奥行きと高さ、志、どれをとっても夢中は突き抜け、
それそのものが力の源泉であり、根拠であり、そしてそれだけがひとを
突き動かし、世界さえ変えていくように思える。
時間も寝食も忘れて没頭できることがある至上。
それにしてもエッセイについて考えていると、すぐれたエッセイが私の理想とする
哲学対話そのもののように思えてくる。鷲田氏の慧眼に恐れ入る。
あるいは瞑想について書いたクリシュナムルティの言葉も。
瞑想とは、既知のものから己れ自身を自由にするための精神の運動である。
全体としていうならば、これはなんだろうか。
なぜひとは未知に開こうとしないのかという大きな問いでもある。
本の回遊、渉猟。わたしはインスピレーションを得るためにバレイショテンさんに行くのだ。
湯布院で対話のかがくの氏田さんのお誘いを受け、東京大学の堀越耀介のファシリテーターで韓国の高校生との哲学対話に行きました。いつもは自分がファシリをしているので、他の方のファシリを見ることは少なく、とても勉強になりました。ありがとうございました。