4月の哲学カフェ大分を開催しました。
今回は「対等な関係とは何か?」をテーマに哲学対話をしました。
お仲間を誘っていただいたりして、たくさんの方にご参加いただきました。
ありがとうございました。
最初に、みなさんの今回のテーマに関する問いを聞いていくところから始めました。
Q 立場や年齢が異なる場合、対等な関係はありえるのか?
Q 対等な関係をなぜ求めるのか? 平等とどう違う?
Q 対等ではない状況・関係になったとき、対等になるには?
Q 対等な関係はそもそも可能なの?どんな条件の下、可能になる?
Q ”対等”を目指すことで、かえって”平等”が崩されることがあるのではないか?
Q 「説教・助言」を親切と信じて疑わない人と良い関係を築くにはどうすれば良いか?
Q ここは対等な場所です、という前置きなしに対等な場所はあるのでしょうか?
Q 教育において、どこまで対等な関係にすべきか?
Q「対等な関係」って不自然じゃないですか?
Q 対等でない関係の中で勾配の上に立つ者がその非対象性に気づくためには?
Q ヒトは”対等”より格差で文明をつくってきたのか?
Q 対等な関係とは良い状態なのか?対等ではない関係とは?
Q 早生まれって対等じゃないですよね?
Q どんな時でも対等な関係は成り立つか?立場(役割)の違いを踏まえた対等な関係とは?
Q 感情のバランスが崩れると対等でなくなる?それは自分自身の思い込み?自分で自分にブレーキをかける。
Q ”対等な関係”というのは「人間」とだけなのか?動物、機会、時間、空間…とか。
Q どうすれば対等な空間になれるだろう?
Q 私はなぜ”対等”にこだわっているのか?
Q Mt .対等とは別のMt .⚪︎⚪︎とは?
Q フラットで生きていくには、人間らしい自己主張が必要では?
Q「丁寧に話を聴き答える」という態度は「対等に話す」と同義か?
Q 対等か否か、誰が決めるのか?
Q「人間は対等であるべきだ」という規範意識はどのように形成されているのか?
Q 対等は何を基準に?だれが?
Q 対等な関係は、1対1の場合に成立する?
Q 子供のころは対等、平等の価値を強く信じていたが、今は一定の価値を認めながらも、そうでない方が、物事うまく進むと思っている私。その感覚への疑問・・
Q 対等って誰がきめるのかな?関係性の中で(損得があるから)生まれる概念?
すごい問いの迫力。もうこれだけでお腹いっぱいなくらい。
今こうして参加された方々の問いをまとめてみると、3時間の哲学対話を通しても、
どの問いの核心にもまだ届いていないような感じがしています。



みなさんの問いや具体的なエピソードを聞いていくなかで、浮かんだものとしては、
・〈対等な関係〉というものが、人生の主題として明確になっている人とそうでない人にわかれる。〈対等な関係〉そのものがわからないという人もいる。
・〈対等な関係〉を良いものとして捉えるのか、そうでもないと捉えるのか
・なぜそもそも〈対等な関係〉を目指そうとするのかという問いもある
大谷選手と対峙した時に、自分と対等とは思えないとき、どうしたら対等と感じられるようになるのか。相手の心の琴線に触れた時、たとえば悩み事打ち明けられたり、同じ共通点を見出したりといった。
という一方で、そういった感情とは抜きで〈対等な関係〉は築けないのか?という新たな問いも。
今回個人的に印象に残ったり、考えるヒントになった発言をまとめてみると・・
・対等な関係というのは、はじめからあるのではなく、不断の努力や姿勢によってつくられていくもの
・自分の感情を率直に出し合うこと、自己主張すること
→海外との比較で、日本に対等の文化がないのはこれか?
・対話と対等のつながり。1対1でなくてもいい。アドバイスも一方向でないこと。
・我慢がないこと
・お互いの権利を認め、なおかつそれを行使できること
・敬語とは何か?という問いもまた核心をついたものであると感じました。


ご参加ありがとうございました。
3時間では足りなさすぎた今回のテーマ
〈対等な関係〉に関しての第二弾をまたしたいと思います。
次回の哲学カフェは5/17です。お楽しみに🎵