対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

わかりあうための対話(その1)

 

最近は哲学対話、哲学カフェ、読書会にたくさんの方々が参加してくれるようになり、たいへん嬉しく思います。

 

ただその一方で、対話の作法といいますか、ルールに明文化されていないけど、守って欲しいこと(常識)が、守られずに対話がうまくいかないと感じる場面も出てきました。

 

ルールで縛っていくというのもしたくないし、限界もあります。だから、ともに〈対話〉というものを体験しながら、一歩ずつ学んでいくしかないと思っています。

 

対話での躓きの経験とそれへの乗り越えを少しずつ書いていこうと思います。

 

***

 

 

以前、読書会でこのようなやりとりがありました。(ざっくりと書いています)

 

 

 

Aさん:人は最終的には自分のことは自分でしか救えないんですよ。

 

Bさん:じゃあ具体的に何もしなくてもいいんですか。放っておくんですか。

周囲の人はサポートすべきでしょう!

 

 

 

Aさんはサポートしなくていいとは一言も言っていませんが、BさんはAさんの発言をそのように解釈して若干怒気を含みながら憤っていました。

 

読書会や哲学対話の場に限らず、わたしたちは普段の会話でも、相手の言っていることをその場で「解釈」し、その「解釈」をもとに言葉を返していきます。

 

そのBさんの「解釈」がAさんの真意から大きくズレていれば、齟齬が生まれ、対話が交わりません。相互理解からは遠ざかります。

 

これを避けるためには、どうしたらいいのでしょうか?

 

まずAさんがもっと詳しく話す必要があるかもしれません。

 

たとえば、

 

 

Aさん:わたしなら最善を尽くしてサポートするけれど、それでも最終的に彼女を救えるのは彼女しかいないと思っています。

 

 

そして何よりBさんが感情(憤り、怒り)に任せて、他者の意見を決めつけないことです。

 

「解釈」はいかようにもできます。であるならば、他者の意見を否定的に受け取るのではなく、可能な限り前向きに受け取ることです。

 

わからなければ問いかけることです。たとえば以下のように

 

 

Bさん:最終的に彼女を救うのは彼女しかいないとするならば、周りの人は何もしなくていいということですか?

 

 

とか

 

 

 

Bさん:「救う」というのはどういう意味でしょうか?病気を治すということでしょうか?宗教的な意味合いの救いなのでしょうか?どのレベルの話なのでしょうか?

 

 

正しい、的確な問いかけというのはなんという難しいことなのでしょうか。

 

SNS上での不毛なやり取りは、ほとんどこれで解決するような気もしますが、何よりも前提として相手へのリスペクトが必要だと思います。

 

そして特定の人に対しての詰問は禁止です。誰かの立て続けの問いに答える義務はありません。相手に答えを求めるのは傲慢で、自分でまず考えてみることです。

 

たとえば、

 

 

Bさん:わたしは具体的には⚪︎⚪︎すればいいと思っていますが、みなさんどう考えられますか?

 

 

 

以下につづく

kannawadokusho.hatenablog.jp