対話と人と読書|別府フリースクールうかりゆハウス

別府市鉄輪でフリースクールを運営しています。また「こども哲学の時間」など

わかりあうための対話(その6)〜抽象の力

 

カール・ロジャーズ先生の思想に入る前に、前回の文脈の違いについて追記します。

 

文脈の違いによるコミュニケーションギャップとは、別の見方をすれば話し手同士の抽象化力の差とも、具体と抽象のすれ違いとも言えます。

 

前回の対話のケースではAさんが具体の話であるのに対し、Bさんは抽象の話をしているとも言えます。これは噛み合いません。Bさんにとっては、Aさんの「具体」を受けて、「抽象」へと飛躍したのかもしれませんが、それを受けてのAさんの反応はあくまで「具体」のレベルで抽象を経た意見ではありません。

 

哲学対話では、具体と抽象を行き来するのが望ましいとされています。なぜなら、具体と抽象を行き来することで、抽象は具体によって検証されることで鍛えられ、現実的な力を帯び実践可能なものになります。抽象だけだと、机上のもの、頭でっかちなものになります。

 

また、具体は抽象によって本質が抽出され、さまざまに応用可能な概念を生み出します。具体だけだと、ただの事実の羅列だけにとどまり、思考が発展、飛躍することがありません。(※マルクスが哲学を経済学で批判し、経済学を哲学で批判したのを思い起こしました。千夜千冊

 

わたしはある時から、哲学対話の参加者にテーマに関する「経験、エピソード(具体)」とそこから導き出される「問い(抽象)」を事前に考えてもらうようにしました。そうすると、みなさんのあげる問いというものが非常に色鮮やかで立体的なものになって、ともに考えることがしやすくなったように感じました。

 

ただ抽象の力というのは個人差があり、各人の能力の差というよりも、嗜好性や癖のようなところもあり、これがわかりあうことの壁になっているように感じます。抽象の力はそのまま文脈を読む力にもつながっています。これもまた各人がトレーニング、修練していくしかないものです。

 

想像なのですが、具体だけの人は情報や事実が並列的に並んでいるのをただ見て、読んでいるだけで、そこから関連性や共通項、構造を探ること(考えること)をしていないように思います。だから、「答え」をすぐに求めようとする傾向があります。

 

細谷功氏によれば、抽象化とは「見えない線」をつなぐことです。

 

『82年生まれ、キム・ジヨン』をどう読むか。ここにはレポート(具体)しかありません。だから、具体しか読まない人にとっては、なんにも解決策が書いていないじゃないかと怒るのは当然です。書いている今。抽象化の作業をする人は、「子育てを楽しめばいいじゃない」といった(善意から来る有無を言わせぬ)社会通念をこの本が批判していることに気づくはずです。それがこの本を「読んだ」ということです。

 

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逆に抽象だけの人は、理路が独りよがりで、意見が分かりにくく周囲に響きません、届きません。(わたしはけっこうこっちだ)

 

書いていて思ったのですが、恋人でも友人でも会社組織でも、この抽象の力(もしくは抽象と具体のバランス具合)が自分と近い人とは一緒にいてとても居心地がいいです。でも対話の力が鍛えられるのは、そこにズレが大きくあるときです。でも居心地は悪くなります。

 

キム・ジヨンが苦しんでいたのは、周囲との現象の抽象化のズレであったとも言えます。つまりそれは、当事者と非当事者の世界認識の解像度のズレです。

 

わたしがトランプ大統領新自由主義者に感じる異和は、この抽象のなさかもと今気づきました。

 

それともう一つ。昔の徒弟制度で師匠が弟子に具体的な指示をしなかったのは、目の前の問題(具体)に対して、抽象的に考えて応用力、独自性を身につけて欲しいからだと思います。

 

ただ今の教育は、学校であれ職場であれ具体化が基本です。だとするなら、わたしたちは何を失っているのか・・

 

答えではなく、問うことと分からなさを哲学と対話が大事にするのは、ここに理由があります。

 

〈参考動画〉

抽象(お客)と具象(店員)のコミュニケーションギャップ。お客は抽象を使うことで自分の想定を上回るものを期待しているが、店員はあくまで具象のレベルにとどまりプロとしての創造的な飛躍がない。のをギャグしているコント

www.youtube.com

 

参考まで。オススメです

『13歳から鍛える 具体と抽象』細谷功(東洋経済新報社)

 

以下につづく

kannawadokusho.hatenablog.jp