6月の哲学カフェ大分を開催しました。
今回は「わかり合うってどういうこと?」をテーマに哲学対話をしていきました。
最初にみなさんのわかり合えたこと、わかり合えなかったことについての経験を聞きながら、今回のテーマに関する問いや疑問を聞いていきました。
以下みなさんからの問いです。
Q わかりあえない時、どうすれば良い関係にすることができるでしょうか?
Q 本当にわかり合えることはできるのでしょうか?
Q わかりあうために必要なことは?
Q「わかり合えた」と判断する方法がわからない。どう判断する?
Q 犬派と猫派はわかり合えるのか?
Q 分かりあうことは必要なのか?
Q まず「わかる」とはどういう状態だろうか?
Q 交ざる 混ざる どちらに近いのか?
Q 話せば分かるは本当なのか?
Q 言葉で分かり合えることはできますか?
Q ずっと分かり合えることはできるか?
Q 職場の分かりあえない人との適切なつきあい方とは?
Q 言葉以外のわかり合いの方法って何があるだろう?
Q お互いがわかり合うためには世界観が同じ出る必要はあるか?
Q「わかり合おう」と思って(意識したり、努力したり)わかり合えるものなのか?


みなさんの経験と問いを聞いて、哲学対話を始めました。
・分かり合えなかったという経験の方がよく語られた
・瞬間的に分かり合えるものと、長い付き合いのなかで分かり合えていくものとがある
・関係が近いほどわかり合いにくい
・わかり合いたいという方とそうでもないという方がいる
・「わかり」と「合う」を分けて考える
・わかってほしい
・哲学対話は「分かり合えない」が「わかる」場所。でもわかり合いたいという気持ちは残る
・ライブにおける「わかり合い」とは
・ロジカルにわかっていくのか、感情(共感)でわかっていくのか
・心が触れ合う
・言語化していく
・すべてを明瞭化しないことも大切なのではないか
・何気ないことも、分かり合えるに含ませる
・お互い大切にしていることが違うんだということを知る
・「わかった」は罠
・重なる部分に意識を向ける
・応えられない問いこそ重要
などなど
今回は言葉を使いながら、言葉以外の世界、わからなさに向かって開かれた時間だったように思えます。このあたりの哲学対話の価値が外部に伝わりにくいところ。。
ここに集まってくる方は、お互いが大切にしていることが近いのかな、、ここには来ない方は、大切にしたいことが違うのかな、、などいろんな問いや疑問が新たに浮かびました。困難な対話は外にある。


ご参加ありがとうございました。
今回は哲学対話、哲学カフェへの言及もよくあった会でした。わたしはいろんなスタイルを模索しつつ、日々探究、アップデートし、参加して楽しかった、(できれば)心も温まりながら、頭からも煙が出るような会を目指しています。
哲学(自己の真理への探究、厳しさ)と対話(他者との協調、公共性、やさしさ)はそもそも矛盾するものがくっついています。そこにわたしは魅力を感じて続けています。この両方をどう見つめていくのかは、生涯をかけた問いです。
次回は7/19(土)に開催します。またのお越しをお待ちしております。