詩人になるか、でなければ何にもなりたくない ヘッセ
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わたし自身を師にしてわたしは学ぶのだ、わたし自身の弟子となるのだ

七月の別府鉄輪朝読書ノ会を開催しました。
今回はヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』(手塚富雄訳)を読んで、みなさんと感想を語り合いました。
この作品はこの読書会を始めたときから、ずっと取り上げたいと思っていた作品で、ついにその機縁が熟したようです。
みなさん、付箋をたくさんつけて読まれている方も多く、分からないことがたくさんあって、そこが考える余地になっているという意見も嬉しく思いました。参加するか分からなかったけど、一日で一気に読まれた方も数名いらして、ご自身の「生」に響き合うものがここには書かれていたのかなと。
また資本主義のとどまることを知らない成長への切迫感から、この本に救いを感じる方もいたようです。
何のためにこのうえ先へ進まねばならないのか?いったどこへ?何の目的で?そうだ、もはや目的はないのだ
『シッダルタ』ヘッセ
一番話題に上がったのは、「言葉」と「体験」についての思索と「時は存在しない」でしょうか。
この小説には「生活」という言葉が何度も出てきて、とても重要視されていますが、たとえば禅では本は読まず、日々の作務、掃除や歯磨き、入浴、食事を作ることがそのまま修行となっています。そこに瞑想も入っています。
わたしたちが補助輪なしの自転車に乗れた瞬間というのは、言葉を超えた体験。悟った状態というのもまた言葉を超えたもので、人間世界の「意味」から離れたもの。詩や芸術、音楽というのもそうでしょうし、芸事が作為から離れることを重要視するのも、このあたりに起源があるのかもしれません。ある参加者が作為の限界性について語っていたのはこういうところかなあ。
過去とか未来とか現在とか、そういうのってどっかの誰かが勝手に決めたことだと思うんです。時間て、別に、過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか、別のところにあるものだと思うんです。
『大豆田とわ子と三人の元夫』
「河は河の至る所で同時に存在する、源においても河口においても、滝においても、渡し場においても、瀬においても、海においても、山においても。至る所で同時に存在する。そして河にはただ現在があるばかりで、過去の影もなく、未来の影もない」
「それだ」とシッダルタは言った。
『シッダルタ』
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量子力学の「時間は存在しない」
「あなたは愛することができない人です」『シッダルタ』
「愛」についての言及があったところでタイムオーバーとなってしまいました。
対話は尽きず。
アンコールの希望もあり、別訳での『シッダルタ』の会を考えたいと思います!

数日前に本を落手したむすびの河野さんの特製メニューは断食明けの食事をイメージして作っていただきました。五臓六腑にしみわたる味でした。ありがとうございました。

表紙の写真は好きです。

ご参加ありがとうございました。
人生を変えるような読書体験を。
次回は8/31。戦争文学を扱います。
お楽しみに♪