風景はひとがいてこそ全うされるような、それが人文学の営みだと考えた。
北海道の開拓団で思い出すのは、京都山科にある一燈園の創始西田天香氏のことだ。
西田氏のことは小島信夫の小説『十字街頭』で知った。
西田氏を題材としているが、小島信夫の小説になっている。当たり前だが。
西田天香は二十歳の頃北海道空知郡に入植し、事業を手がけるも
さまざまな軋轢のなかで挫折。失意のうちに帰郷する。
小島信夫の小説『十字街頭』の冒頭を書き写してみる。
皆の衆、わしは明朝五時ひとりで托鉢に出かけて行くが、二度とここへは帰ってこんつもりや。握飯一つもたず、草鞋ばきで杖一つだけを頼りに出かけるのやが、普通なら皆の衆、ここに残っている老若男女、残留三百人が大晦日の朝あの橋のこっち側に整列してわしを拝んでそれから歌をうたうなかをわしの姿がずーと椎茸を栽培しとるあの畑をまがって、このごろ出来たばっかしの高速道路のかげにかくれるまで、見送ってくれるのやが、今度という今度は、わしは送ってもらわず、何でもない日に出かけ、もう帰ってこんつもりなんや。今度は、わしが帰ってくるか、帰ってこんか、皆の衆は考えることもないわ。これは面白いぞ。いや、そういうてはいかん。
わしは皆の衆も知っとるように、六十年前二十の時に、同志二百人と北海道へわたって開拓村を作って、七年目には、どうやらこうやら、みんなが食って行けるメドがついたさい、そして忽ち、鬼になってしまったさい、わしはあとはみんなにまかして、わしひとり着のみ着のままで、郷里の近くへ帰ってきて、それからどうやって慾心をつのらせずにやって行けるか、人と人とが睨み合わずに生きて行けるか思いなやんで、ずーと三日三晩川の水だけ飲んでとうとう寺の縁の下で動けんようになって倒れとったところが、赤子の泣声をきいた。腹のへった赤子の声やと思っとるうちに、赤子の泣声がだんだん小そうなって、それからはホロホロとじゃれつくような声に変ったんや。捨子の赤子がオッパイをのんでおるところやった。わしはそこで、ああこれや、わしも赤子になって泣こうと、こう思い、それから、一軒一軒赤子のように無心に声をあげて泣くことにしたら、飯にありつき、お礼の意味で便所の掃除をさせてもらったら、食べさせてくれた。
北海道はひろいものだから、東から西へ向かうと季節が逆行して、
初冬から晩秋の景色へと変わっていった。
燃えるような紅葉、赤に溺れて、みんな写真を撮った。
朝ホテルから起きて、散歩しようとホールにいた経理のKさんと
庭に住んでいるという蝦夷シマリスを探したが、一匹もいなかった。
ヒグマといい、キタキツネといいナキウサギといい動物には縁がない旅だった。
ちなみにツアー中のコロナの管理についてはマスク着用はもちろんのこと、
殺菌処理や毎日の検温、バス内での飲食禁止など厳重に行われていた。
大分に戻って数週間して北海道内でコロナ感染が増えるようになり、
ツアー時期が遅れていたら中止になっていただろうと思うと、
ぎりぎりのタイミングであった。
皆の衆、わしはずーと大晦日の早朝にここを出てひとり托鉢行に出かけることにしとった。わしらはちりぢりばらばらに行に出かけるとき、いのこるものは、あの日月橋のたもとで行くものを送り拝み、行く者は合掌しながら、下駄ばきで出かける。九州へ行に汽車で行こうが、北海道へ行こうが、そうするのやな。わしが夜明けにひとり旅立つときも、怠けて眠っとるものもいないとは限らんが、たいがいの衆はわしを送ってくれていた。そのとき、わしはいう。皆の衆、それでは。わしは帰るかもしれんし、帰らぬかもしれん。もともとここはただの門や。行をする家、歩く道が、わしらの世界や。