先日の佐伯市の小学校での哲学対話が大分合同新聞の記事として掲載されました。
講演の内容や哲学対話のことを端的にまとめていただいて、ありがとうございました。
哲学カフェを開催しました。
今回は「美味しい」をテーマにみなさんと考えていきました。
美味しいイコール体にいいのか?
体に悪いのに美味しく感じるのは何故なのか?とか、
美味しいは空間や条件によって決まるのではないのかとか、
いろんな問いが出されました。
美味しいは主観(文化など後天的)によって決まり、
体に良い悪いは客観的に測定できるとも。
また質よりも量が大事という人もいたり、
美味しいは食育の対象であるという意見も。
美味しいは、人の心の充たされや幸福にも関わる、
またどう生きてきたのか、どう生きたいのかにつながるという意見もあれば、
「美味しい」が正義のように無条件に求められ過ぎている傾向に疑問を呈する方も。
ふだん何気なく使っている「美味しい」も深掘りして考えてみると、
たちどころに迷宮に入ってしまいました。
たとえば絵画や映画、文学なども鑑賞する際はそれまでの経験値というものが、
評価というものの善し悪しを下支えしているものですが、
「美味しい」もそうなのだなあと感じました。
経験を抜きにした、美味しいというものにすら「汚染」されていない、
食というのがあるのか・・
古代の人はナマコなどをどう味わったのか、、想像してみます。
思索は尽きませんでしたが、ご参加ありがとうございました。
佐伯市の小学校で哲学に関する講演と哲学対話をしました!
学校内で哲学対話をすることは一つの目標だったので、とても嬉しい依頼でした。
PTAの研修部からの依頼でした。
保護者の方や先生方も集まってくれて50人ほどの集まりでした。
最初に「哲学(てつがく)ってなんだろう?」をテーマに哲学についての説明をしました。小学校4年生から6年生まで、みんな真剣に話しを聴いてくれました。
後のアンケートでは、哲学のことを知ることができてよかったという声が多かったです。
今回は講演前に、みなさんから「問い(謎、疑問)」を集めました。みんなたくさん考えてくれて(日々浮かんだ問いを思い出してくれて)、どの問いもステキだったので、その問いを全部紹介しました。おともだちがこんなことを考えているんだ、こんな問いをあげたんだというのは、保護者や先生方とともにけっこうな驚きだったようです。
後半はみんなから集めた問いのなかから、ひとつ選んで、哲学対話を実際に体験してみました。
問いは、「何のために学校に行くのか?」「学校はみんな行かなくてはいけないのか?」
全体で輪になって、コミュニティボールや、さまざまな僕の問いかけから、みなさん自分の意見を言葉にし、それを聴いていました。最後には保護者の方や先生も対話のなかに入って、一緒に考えました。個人的に反省点はありましたが、哲学対話という体験はかなり有意義なものとなってインパクトがあったようです。
アットホームでとてもあたたかい学校で、緊張せずに話せました。ありがとうございました。また対話の場でお会いしましょう!
※提出した振り返りのレポートをここに転載します
1)最初に設定した目標
・哲学という学問があることを生徒たちに知ってもらう
(難しいものではないよ。こどもたちはみんな哲学者。)
・哲学がこれからの不透明な時代に大事になってくることを伝える
・みんなに自分の「問い」を考えてもらう
・それをみんなと共有する(保護者の方と先生方にも)
・みんなで一つの問いに立ち向かっていく「哲学対話」を知ってもらう(ルールややり方など)
・実際に哲学対話を体験してもらう(自分の意見を表明する、それが他者に聴かれるという体験をする。聴くこと、沈黙の大切さなど)(そしてできれば一人でも哲学や哲学対話ってすごいな、面白いな、楽しいなと思えるといい)
2)成果や反省点
・たくさんのステキな問いが事前に集められたことで、この問いを時間をかけて紹介しようという転換ができたのは良かった。
・自分の問いや意見が丁寧に聴かれ、扱われるという体験に、自尊心が高まった生徒もいたのではないか。
・正解のある学校教育とは違う学びの在り方に視野が広がる生徒もいたのではないか
・予想内ではあるものの、考えを深めたり、お互い質問し合ったりという局面まではいかなかったのはファシリテーターとして反省点ではある。
・時間制限もあったが、志水への質問コーナーを設けてもよかったかもしれない
・保護者からの感想では、哲学は難しいものではなく身近なもので、子どもたちの問いや意見の深さに驚かされたというものが多く、学びや気付きがあったことを成果として感じられた。
・生徒たちの感想からは、同じく哲学というものを知れたこと、他者の意見を聞けて相互理解が深まったことが読み取れたのは大きな成果として感じられた。哲学対話は非日常的な体験ながら、普段の関係性をより良いものにすることに繋がれば、彼等にとって今回の体験はとても大きなものになると思われる。
3)全体的な感想
直川小学校はアットホームでとてもあたたかく、リラックスして話せました。長い歴史の中で積み上げてきた、あたたかく、やわらかな校風を感じられ、そういった場で哲学対話ができることはとても嬉しかったです。見えないけれど、先生と生徒、親と子、生徒同士の関係性が固定化しているのを、外部から来た講師が哲学対話によって少しでもほぐせたのを実感できました。実はそれが隠れた目的でもあります。哲学対話は1回体験しただけで、何かが劇的に変わるということはなくても、池に投げた小石の波紋のように小さくても後々効いてくるような体験になれば嬉しく思います。対話の目的は対話をやめないこと。また対話の場でお会いしましょう。
でも、劇場を抜け出したあの日見た景色のお陰で、リンデは新しい自分に出会えた気がした。
『自分を好きになる方法』本谷有希子
十二月の読書会の案内です。
参加希望者はホームページからお申し込み下さい。
私は誰かの美しい人だ。私が誰かを、美しいと思っている限り。
『うつくしい人』西加奈子
十一月の別府鉄輪朝読書ノ会を開催しました。
今回とりあげた作品は西加奈子さんの『うつくしい人』。
一月にブローティガンの『愛のゆくえ』を扱ったのですが、
今回の『うつくしい人』は『愛のゆくえ』が通奏低音になっているということもあり、
これを機会にみなさんと読んでいきました。
今日もたくさんの人に集まっていただいて、いろんな意見が聴けました。
全体的によく分からなかった、ちょうどいい終わり方だった、旅行っていいなあ、
気分が主人公と同じように晴れた、結局お姉さんを目指すということ??
誰かに認められることが幸せにつながることではないはず、
美しいとは、ひらがなのうつくしいとは何か?
いろんな謎が回収されぬまま置かれているのが良い、
などなど、いろんな問いも聴かれました。
対話のなかで出た発言で、意外に「坂崎がいい!」というのも私にとって発見でした。
しかし愚純に生きるというのもなかなか難しく小利口になってします。
愚純のままでいられる場所というのがなかな少ない。
だからこのホテルにあるような図書室や、あるいは『愛のゆくえ』に出てくる図書館
のようなものを自分はつくりたいのかもしれない。無用のものを。
この読書会もビジネス書や啓発書、新書でない、小説を読もうとしているのも、
愚純であろうとしたい現れなのかと思ったりしました。
わたしの思う、感じる「うつくしい人」ってなんだろうか。
いつもの哲学的にではなく、この小説に寄せて考えてみると、
迷いとか戸惑いとかに揺れ動いている人のことのように思う。
完成された人ではなく。そんなことを考えた
今日のむすびのさんの特製メニューは作者西加奈子さんが住んでいたエジプトにちなんだ料理でした。多種多様な炭水化物を詰め込んだ!エジプトの国民食もコシャリと焼き茄子と白ごまのペースト、ババガヌークを挿んだパンでした!乾燥地帯のエジプトでは口パサパサになりそうな感じもしましたが、とても美味しかったです。ありがとうございました。
ご参加ありがとうございました。
来月十二月は、『自分を好きになる方法』本谷有希子(講談社文庫)を読んでいきます。
日本史を一から学び直していて、歴史を学ぶということもまた、
個々の感性に大きく依存するというあたりまえの事実に驚かされる。
個々の感性のもようの違いにより、歴史は違った相貌を見せる、魅せてくれる。
歴史が分からなければ、今も分からない。
古代から学び直す必要がある。
日本史の授業を展開する、あるYouTubeを隙間時間に視聴する。
彼は黒板に白墨で板書しながら、解説していくスタイル。
そして重要なのは、彼が白墨で板書している時間をスキップせずに
見せているところだ。
その間のカンカンカンッというあの白墨の響く音、
彼が解説し話す時間と同じくらいのボリュームがあるかもしれない。
あの合い間こそが授業のなんたるかだろう。
こちらが書き写す時間でもあるし、考え整理する時間でもあるし、
もしくは空想に耽ったり、なにかを聯関させる時間かもしれない。
アナログというのは、辞書的な定義だと連続的な量として情報を扱うとなる。
(デジタルは段階的だ)
最近自分が講義するときなど、すっかりkeynoteなどのプレゼンソフトに
頼るようになってしまった。(頑なにそれで講義を拒否した教授がいた)
便利だし、楽だし、使い回せるし、なにより編集することができる。
でも授業は情報ではない。
総体的、総合的な量をまるごとプレゼントするものだ。
ショート動画など時代はその逆を行っているけど、
この先生の姿勢をとことん支持したい。
船旅もまた多くの間のあるもっとも贅沢な旅のスタイルであろう。
周知のように王羲之の書は、肉筆といってもいずれも複製ばかりで、自ら書いた書はただの一点も残っておらず、また真偽のほども明らかではない。にもかかわらず、王羲之筆と伝えられてきた書群の彼方に浮かぶ、ひとつのかすかな映像、否、映像以前のわずかなさわりのようなものがある。そして、それは確実に現在の書につながっている。
書の原郷(パトリ) 石川九楊
石川九楊氏が精選した副島種臣の書を見るために佐賀城本丸歴史館へ出かける。
その多くの著書を読み憧れ続け敬愛した石川九楊氏がふと前を歩いていた。
城の石垣を撮っていたアングルに先生が入る。
その背中からの気配に清冽なものを感じた。
その後講義を受け、氏がこの日のために書いた手書きのレジュメを受け取る。
生の字を初めて見て、それにも感動する。
講義は氏の文体そのものだった。
憧れる人がいる、自分にとって先生がいるというのは、
魂のひとつの座標軸のようなもの。北極星のような。
憧れは、見た目だったり人格云々に憧れることはなく、
私が憧れるのは、ひとえに彼の文体であり、書かれたものにたいしてで、
つまり私は、私を構成しているのは、私の魂に直接連絡するものは、
そこにしかないのかもしれないと気付く。
レヴィナスや吉本隆明、折口信夫、ユング、プルースト、文語体の聖書・・・
いろんな文体に導かれて生きる。
書は人なり。