対話と人と読書|哲学カフェ大分

大分市で哲学カフェ大分を別府市で別府鉄輪朝読書ノ会を開催しています。

空襲が待ちわびて

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第一章  岬をたどりながら

 

一歩にはじまり、さらに一歩、そしてさらに一歩と、打楽器を叩きはじめるように積み重なってゆく歩行のリズム。歩行はたやすくわたしたちを誘い出す。宗教、哲学、風景への眼差し、都市の政治学、人体の解剖学、アレゴリー、そして癒やしがたく傷ついた心の奥へ。世のなかにこれほどありふれていて、これほど謎めいたものがあるだろうか。

 

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)

 

 

 

2021.10.18-24

 

月曜日

冷え込むと温泉がおいしく感じる。

沁み入る温泉。

 

 

サッカー元日本代表の城氏がスペインのリーガに移籍したときに言葉が分からなくて仲間とコミュニケーションがとれず相手にもされなくて苦しんだという。ある日ついに発狂したかのように部屋で泣き叫んで呻いて暴れた。通訳の人も怖くなって逃げた。翌朝食時、いつものようにテレビで天気予報のニュースをつけていたら、突然テレビのスペイン語の言葉が自分に近しいものとして内側に語りかけてきたという。

 

 

「これ今、今日は晴れって言ってない!?」

 

 

通訳の人に驚いて聞いたら、そうだよ!今日は晴れだと言っているよ!と。発狂の後のユリイカというのか覚醒体験のような、あたらしい回路の接続は、強いストレスの後にやってくることが多いようだ。

 

 

 

火曜日

髪を切る。担当のKさんがムロツヨシの髪型を薦めるも分からなかったので次回ということで。帰って画像検索したらなかなか面白く、こんなのもありかと思った。ヘアカットは自分のイメージと他者のイメージのせめぎ合うところ。自分のイメージの斜め上を行くようなところに他者との出会いがある。ちょっとした違和感をとりこんで。

 

 

 

水曜日

夜会。秋の日のヴィヲロンのためいき。諏訪内晶子シャコンヌ。音の粘度、艶、愁いとか軽さも全部あった。

 

 

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木曜日

寒い。温泉に入る。寒いと温泉に入ればいいという環境に生きる。

入れば、2、3時間ポカポカしている。

 

 

図書館で児童書をまとめて読む。児童サービス論。

自分で読書家だとは思うが、児童書は熱心に読んでこなかったので、

図書館で有名どころを手に取ってみるも、あやうく涙しそうになる。

 

感情に迂回がなく、世界の内側と外側が地続きになっている子どもの世界。

何度も涙が滲む。これが絵本セラピーというやつなのかもしれない。

 

 

「おちゃのじかんにきたとら」「ウェン王子ととら」「オツベルと象

椋鳩十のイノシシ物語」「アンジュール ある犬の物語」「なまえのないねこ」

「百枚回生きたねこ」「あおくんときいろちゃん」「あいうえおのき」

「ムッちゃん」「字のないはがき」「ぞうれっしゃがやってきた」等々

 

 

「ムッちゃん」を読んだのは30年以上ぶりではなかろうか。

かび臭い腐敗した水を飲むシーンは強烈に子ども時分から記憶に残っている。

「ムッちゃん」は大分の児童書の郷土コーナーのところにあった。

他県ではあまり読まれていないかもしれないが、

大分の人なら誰もが知っているような児童書だ。

 

 

ムッちゃんは戦時中洞窟に筵を敷いて暮らしていた少女の話だ。

横濱から大分に疎開してきたが、結核を患っていたため親戚から追放された。

洞窟での孤独な生活。食料とかどうしていたのだろうか。

ただその洞窟生活も孤独でなくなる時がある。

空襲がきたときだ。空襲がくると多くの人がその洞窟に押し寄せた。

少女にとって空襲は孤独が癒える、同じ年代の少女たちと交流ができる

たのしいひとときだったのだ。今回読み直してみて、その設定に衝撃を受けた。

 

 

 

 

 

身動きのならぬ病床でも、実際に喘いだことはほとんどなかった。一度息を走らせたら、辛抱が破れて、喘ぎが止まらなくなるとおそれた。しかし細く揺らぐ平衡がどうにか落ち着いたかという時に限って、安堵の隙を窺っていたように、笑いにも似た喘ぎの衝動がゆっくりと上げて来て、自分で自分を、剥離気味に眺めるうちに、制止の限界にかかり、手足までがひそかに、責任の分担を放棄して躁ぎ出す。砕けかける波の壁の、巻き込まれる間際の、透明に伸び切った碧を想った。それを堪えるだけ堪えて、長い息を抜く。喘ぎにはならないが、その平穏そうな息があたりの静まりの中で何かの間違いのように、聞こえることもあった。

 

 

『野川』古井由吉

 

 

 

 

 

金曜日

今日はいくばくか暖かい。

明日から福岡へ。県を越えるのは1年ぶり。

 

 

 

国道を駆ける馬二頭、通報相次ぐ愛知。気持ちよさそうに走っていたと。

石原吉郎の詩。「馬と暴動」を思い出した。

 

 

 

 

 

われらのうちを
二頭の馬がはしるとき
二頭の間隙を
一頭の馬がはしる
われらが暴動におもむくとき
われらは その
一頭の馬とともにはしる
われらと暴動におもむくのは
その一頭の馬であって
その両側の
二頭の馬ではない
ゆえにわれらがたちどまるとき
われらをそとへ
かけぬけるのは
その一頭の馬であって
その両側の
二頭の馬ではない

われらのうちを
二人の盗賊がはしるとき
二人の間隙を
一人の盗賊がはしる

われらのうちを
ふたつの空洞がはしるとき
ふたつの間隙を
さらにひとつの空洞がはしる
われらと暴動におもむくのは
その最後の盗賊と
その最後の空洞である
  


石原吉郎 

詩集「サンチョ・パンサの帰郷」

 

 

 

 

 

 

土曜日

福岡へ。NHKの主催する朗読セミナーへ参加。

初級篇のコース。

ただ受講生はなんらか声の仕事や活動に関わっている方たちばかりで

そのレベルの高さに驚く。

お寺に僧の体験入門に行ったら、自分以外皆お経がそらで言えているみたいな。

 

 

「音を起こす」「読まない」「気持ちを引き取る」「発信力」

 

 

先生の言葉の意味が分かっても、体に落とし込むのはなかなかだ。

何度も何度も読み直す。

 

 

一日経ってかなり上達したようだ。

他人の上達にはすぐ気付くものの、自分の上達は分かりにくい。

 

 

疲れたのか、ホテルに帰って10時間以上眠った。

ホテルの近くを歩いていたら中野正剛の記念碑があった。

 

 

 

 

日曜日

NHK主催の朗読セミナー中級篇。参加者のレベルも上がり、朗読対象となる作品も難易度を増す。特に谷崎潤一郎少将滋幹の母』は難しく、4時間くらいかけて何度も何度もみなで輪読した。自分でもかなり上達したのが分かった、手応えを感じた。先生曰く「体に伝わる音が変わった」とのこと。

 

 

 

自分が朗読に関心を持ったのは、ラジオに出演し自分の朗読を聴いてから、もっと力をつけたいと思ったのと、日下武史氏の朗読『李陵』を聴いて雷に撃たれたからだった。演劇や古典芸能もそうだと思うが、優れた声、所作や存在も含めたものは、それが世界に放たれた瞬間、空間を変質させる。卑弥呼とかどんな声だったのだろうか。

 

 

 

 

 

看護師していた時、精神病院でなくても癲癇の人は結構いた。昔は癲癇は神聖病と言われたそうだけど、ほんとにそういうところがある。発作の最中はそこだけ空間が別次元になる。その空間には驚きのあまり言葉を失う。祝祭空間と言えるかも知れない。これも繰り返しツイートしている。ドストエフスキーは癲癇だった。その発作の最中の恍惚はわずか数十秒が全人生に匹敵する。と言っている(言葉はうろ覚え)。私はこのことを、舞踏を語る時によく引用する。舞踏において「よく踊れた10分間は実人生の10年に匹敵する」。それくらい時間も空間も凝縮される。舞踏でなくても身体にはそういうところがあるが、舞踏は特にそれが激しい。舞踏を始めたら、せめてそこまでは経験して欲しいと思う。

 

 

舞踏家 最上和子Twitterより

 

 

 

 

遊歩のグラフィスム

 

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2002.10 Seoul 異国の雨。知らない人たちの背中の追いながら地下鉄へと歩いた

 

 

 

 

 

2021.10.11-17

 

 

月曜日

なにをした日か忘れた。月曜日は遠い。

手帖にはTSUTAYA返却とだけある。

 

 

 

火曜日

暑い。蒸します。

10月とは思えない。日曜日から冷えるようだ。

冬服を準備することのリアリティがない。

 

 

 

水曜日

大分の街へ出る。連日コロナ感染者は1人とか2人になっている。

 

 

シネマ5でアレサ・フランクリンの1972年ロサンゼルス、ニューテンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブをおさめたドキュメンタリー映画を見る。熱狂的ライブ。宗教的熱狂。熱狂により神に近づいていく。トランスのようでトランスではないけど近いものがある。歌い、体を動かす。一遍上人の踊り念仏もそのようなものだったか。足を踏みて音をならす。木板の床、モルタルの床。おそらくバプティスト系の教会は、このエクスタシーのような熱狂に至ることが教義のキモとなっているのではないか。そこにおいてのみ神に近づくみたいな。田中小実昌の父田中種助の開いた教会もバプテスト系で、そこで描かれた信仰風景も熱狂に満ちたものだった。以前廃屋となった呉の十字架のない教会を訪れたことを思い出した。それも10月の晴れた日のことだったように記憶している。今こうして引用するにあたり『ポロポロ』をぱらぱらと読み直すだけですごい。ここまでの宗教的領域に達した日本の小説は殆ど無い。遠藤周作の作品には宗教だけがない。

 

 

 

 

 

まだ町なかの教会にいたころ、このポロポロ、ギャアギャアがはじまったときは、なにがおきたのか、とヤジ馬が教会の窓にいっぱいたかって、のぞきこうもうとした。

そのあとで、山の中腹の木立のなかに、どこの派にも属さない、自分たちだけの教会をつくったのだが、教会でポロポロやるだけでなく、たとえば、父とぼくとが町の通りをあるいていて、むこうから、一木さんがあるいてきたりすると、道ばたで立ちどまり、ポロポロやりだす。停車場の雑踏のあいだで、教会の人どうしがあったときなどもそうで、子供のぼくは恥ずかしかった。これは、ポロポロを見せびらかし、つまりはデモンストレーションをしてるのではなく、からだがふるえ、涙がでて、もうどうにもとまらなく、ポロポロはじまってしまうのだろう。

 

 

 

田中小実昌『ポロポロ』(河出文庫

 

 

 

 

 

アレサ・フランクリンの映画にあった熱狂の不可解さを、多少なりとも田中小実昌の記述を通して理解できるような気がした。

 

 

 

終わってしらべもののためコンパルホールの図書館へ。読書会によく来てくれている方が司書として働いていた。マスクをしていたけれど声の質感でわかった。

 

 

終わって以前から行きたかった新刊のブックカフェBareishotenへ。ここにも読書会へよく来られる方がお客さんとして来ていた。大分の読書界は狭いのか。店主から開店に至るまでの経緯などいろいろとお話を伺った。「読むための場所」を開く。静かで、照明の加減も良い。このお店でレベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)を購入した。以前から買おうと思っていたけど高いし、あまぞんでは嫌だったので、買い場所を求めていた。最近は辰濃和男氏の『四国遍路』を読んだ影響もあって歩くことについてずっと考えている。というか長く歩きたい。しばらく走れてもいない。

 

 

 

 

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木曜日

別府の図書館へしらべものに。

除籍本のコーナーにあった『張作霖爆殺』入江志乃夫(中公新書)と

ベケットの『マーフィー』(早川書房)を持ち帰る。

中公新書の深い緑色のカバーデザインが好きだ。知性を感じる。

けど勢いで持ち帰った『張作霖爆殺』はそれほど心躍る内容ではなかった。

そっと戻そうか。

 

 

夜は冷えたので長袖長ズボンをはいて寝る。

オカユも寒いのか布団に一緒に寝てくる。

 

 

 

 

金曜日

空の涯が感じられないような晴れ。澄み渡り。

鉄輪温泉は高台にあって空が近く感じられ、目線を空に合わせながら歩くと、

場所によっては空を歩いているような気さえする。

 

 

 

オンラインイベントの保坂和志の「小説的思考塾vol.5(死について)」と佐川恭一『舞踏会』の読書会に申し込む。どちらも楽しみ。

 

 

 

 

高速バスのチケットを購入する。来週福岡へ行く。

県を越える移動は1年ぶりになる。

 

 

 

月末の読書会のため、『ダンス・ダンス・ダンス』を読み直す。20年以上前に読んだときは、お洒落な台詞が臭くてついていけないところがあったが、今は主人公の闇にも深く同調できる自分がいた。暇を持て余している主人公が村上春樹氏の小説には多い。でも暇を持て余しているときほど存在論的に人はもっとも充実していると思う。そういう難しいことを描こうとしている。暇というより閑の字の方か。そしてよくぶらぶらする、歩く。そうそう、『ダンス・ダンス・ダンス』は中学生かくらいの頃、近所の図書館でなんとなく借りて、でも全然読めなくて、(大人の本の感じがした。自分にはまだ早いと思った)そのまま返した記憶がある。めちゃくちゃ売れていて、社会科の教科書にも載っていて名前だけは知っていた。村上龍の名前も。

 

 

 

 

 

 

出鱈目な睡眠パターンだったが、とにかくきちんと朝の八時に目覚めたのだ。一周してもとに戻ったという風に。気分は良かった。腹も減っていた。だからまたダンキン・ドーナツに行ってコーヒーを二杯飲みドーナツを二個食べ、それから何処に行くというあてもなく街をぶらぶらと歩いてみた。道は固く凍りついて、柔らかな雪が無数の羽毛のように静かに降り続いていた。散歩日和とはとても言えない。でも街を歩いていると精神が解き放たれるような気がした。

 

 

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫)

 

 

 

 

 

土曜日

夜はオンラインで哲学カフェを開催した。

テーマは「政治的発言はなぜ嫌われるの?」。

午前中に申し込みがばたばたっと来た。

今回は10人以上集まった。これくらい集まると対話の複雑性が増して楽しい。

少ないとなぜか求心性が発生し、お互いの異質さが消える傾向がある。

 

 

終わって参加者のKさんとチャットですこし対話をする。

アメリカでは巧みな弁説は評価に値するが、日本ではそうではないという話。

口八丁という言葉。

 

 

 

日曜日

寒い朝「本読みに与ふる時間」をオンラインで開催。

『ウォークス』を読んだ。すばらしい書物だ。

 

 

午後からはカフェフィロ主催の読書会「四国遍路」辰濃和男著に参加する。

こちらもテーマは歩くだ。

四国遍路を体験されている方の話、金剛杖は野垂れ死ねばそのまま墓碑となる。

四国遍路にはクライマックスはない。終点がない。

迷うことも主題になる。包み込むこと、死ぬこと。

サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にもお接待はあるという。

いろんな人の「歩く」ことの経験を聞いていて、大峰山にも惹かれ始めた。

佐渡にも模造版の八十八カ所があるのか、知らなかった。

解説者の佐々木教授のライプニッツとお遍路の関聯について聞けば良かった。

 

 

動詞だけで記述された特異なこの本の目次をまとめてみる。

 

 

 

 

 

一 徳島・へんろ道

1 誘われる 2 着る  3 歩く 4 いただく 

5 打たれる 6 出あう 7 はぐれる 8 履く

 

二 高知・へんろ道

1 解き放つ 2 突き破る  3 泊まる 4 包みこむ

5 体得する 6 あこがれる 7 食べる 8 ほどこす

 

三 愛媛・へんろ道

1 痛む 2 泊まる  3 迷う 4 修行する

5 回る 6 融和する 7 遊ぶ 8 ゆだねる

 

四 香川・へんろ道

1 哭く   2 死ぬ 3 捨てる 

4 融和する 5 洗う 6 結ぶ

 

 

辰濃和男『四国遍路』目次より(岩波新書

 

 

 

  

夕方からぐんぐん気温が下がっていった。慌てて冬服を出して着る。

昼の間に干した毛布も掛け布団も出す。

太陽の匂い。オカユは毛布が好きだ。

 

 

近所をむちゃくちゃに歩いてみる。鉄輪の湯けむりの風景が広がる。

汗ばんで気持ちよくなる。

歩道は車道に押されてか細く、歩くことは貶められている。

四国のお遍路もそうであるようだ。

 

 

 

 

 

誰もが歩くことについてアマチュアである。だからここで語られる歩行の歴史はアマチュアによる歴史だ。そして歩行になぞらえていえば、それは長い経路をたどりながらさまざまなフィールドを横切ってゆくが、どこにも長逗留はしない。

 

 

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)

 

 

 

【開催報告】オン哲!10.16「政治的発言はなぜ嫌われるの?」

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10月のオン哲!(オンライン哲学カフェ)を開催しました。

今回のテーマは「政治的発言はなぜ嫌われるの?」でした。

テーマ性でしょうか、今回は前回とは真逆の男性の参加者の多い回となりました。

以下、主観も交えつつまとめてみました。

 

 

対話に入る前に参加者の皆さんに今回のテーマについて思うところを聞いてみました。

 

・マレーシアではカジュアルに政治の話ができる

・なぜ日本ではできないのか、文化や歴史的な背景が知りたい

・有名人の政治的発言が反発を食らうのは職人的な役割への期待として、政治的発言が含まれていないのではないか

・日本では「対立したくない」というのがベースにあることと、政治についてうまく話せるようになるための機会がそもそもない

・学校教育では、意見を持たない、主張をしない、協調性が大事ということで教えられてきたから

・政治的な知識がないと発言しにくいのはなぜだろう

・村的共同体の中で前提の分かる「知っている人」との会話は成り立つけど、「知らない人」との間での政治的な話は、お互いの前提条件から話さないといけなので面倒くさいから、うまくいかないのでは

・誰一人日本ではまともな政治教育を受けていない。政治オンチ。政治を語る以前の問題にとどまっている

・自分の給料が上がることに関わる点に関して政治に関心がある

・政治的発言・政治的表明は、共同体にとって隠すべき規範であり、みにくい動機にあたる。そもそも社会的協力に反するもの

 

 

これらをふまえつつ、対話に入っていきました。

 

・海外では政治について喧喧諤諤の議論をして言い争うこともあるが、終わればノーサイド、握手をする。後を引かない

・社会は自明のもの、完成されたものと考えるのではなく、まだまだ直すところ変えるところがあると考えるところに、政治的発言が生まれる土壌があるコミュニケーション論以外のところで、今回のテーマを考えたい

アメリカ大統領選などと比べて、日本の政治は面白くない

・政治を面白くするために個人としてどういう働きかけをすればいいのか

・個人として選挙に関わると楽しい。生き生きする

・政治に参加することが楽しむ第一歩

・演説の重要性。思想が見えない。心に響かない言葉。オリジナリティのなさ

・日本の政治家はスピーチが下手。アメリカなどはスピーチライターなどがいて練りに練っている。言葉でやり合うことがないことと、今回のテーマである「政治的発言はなぜ嫌われれるのか」はどこかで通じているのではないか

・海外では反対意見はフィードバックとして捉えるが、日本は反対意見は反抗として捉えられる

・共感や同調が大半。反対意見を述べるときは神経を使って、黒でもなく白でもなく、ちょっとずつずらしていきながら反対するw

・意見の表明は、それで終わりのものではなく、対話のプロセスである。それで終わりと思っているから炎上するのでは

 

・政府が推進する主権者教育はひどいもの

・人間が肌で感じられるコミュニティの範囲は100人から200人程度

・コロナの対策についてダウンサイズして各自治体に裁量権を与えて決めれば政治参加になって楽しくできたのではないか。面白さを感じるためには当事者意識が大事

・なにが政治的かという問いも必要かと。今ある秩序に対して発言することを政治的とするのか。なんでも政治的というわけはないのでは

・政治について勉強することが大事。それが前提になっている。勉強しないと政治家を選べないし、争点も分からない

・勉強しなくてもいいのでは。勉強しなくても論ずることができる

・勉強しないと政治家に騙される。利用される。馬鹿にされる。抵抗のための勉強

・政治は基本的人権など、人間が生きる上で根本的な改変することのできない良言いに触れている尊い行為だが、公約を簡単に翻したり、馬鹿にしている。とても本気では相手にできない

・政治についての発言は風通しの悪さをやはり感じた

・政治は結局私利私欲

・政治は私利私欲だと思わされているのではないか

・この複雑な政治の構造を意識で変えられるのか。このシステムはやりようがないのではないか

・どこの国も完璧なシステムはない。システムは前提にすぎないのでは

 

 

まだまだ対話は冷めやらぬ感じでしたが、このあたりで終了のお時間となってしまいました。政治についての話は、歴史や経済、文化、言語などさまざまな領域に渡り、ファシリテーションとしての効果的な問いかけがなかなかできませんでしたが、久しぶりに複雑な要素が絡むテーマの魅力を楽しめた時間でもありました。ご参加ありがとうございました。

 

 

 

終わって考えたこと…

 

・政治についてのある種の「あきらめ」があるのか(変えようがない?)

・それは「わかりにくさ(面白くなさ)」がもたらしているのかもしれない

・争点をはっきりさせる(エンタメ化?)

・演説が軽視されている。レトリックが軽視されていることが「政治的発言」の忌避につながっているのかもしれない

・言葉の巧みさ、弁説の良さが評価されない社会

・弁説や演説は、個としての表明。その機会がほとんどない。なので、政治的な発言をされることにもすることにも慣れておらず、アレルギーのように反応してしまう

SNSはその練習?いまのところ炎上がほとんどだが

・匿名ではやはり個の表明にはならない

・やはり学校教育が大事。

 

 

衆院選の近いタイミングで政治についてのテーマをとりあげましたが、もちろん政治は選挙の時だけにあるわけではなく日常のなかにあるので、もっと政治を日常的に考え話せる場を作っていきたいなとも思いました。そういうレッスンとしても哲学カフェはあるのだろうと。個人の意見を表明する場を取り戻す試みとして。

 

 

【開催報告】第九回 本読みに与ふる時間 10.17

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わたしはソノに、数ヶ月前にロサンゼルス・タイムスで見かけて頭に引っ掛かっていた広告について話した。CD-ROM版の百科事典の全面広告だった。謳い文句は「雨の日にも図書館まで歩かなければアクセスできなかった百科事典。お子さまにはそんな苦労をさせたくない。クリック一つで知のすべてをお約束します」。でも本当に教育になっていたのは雨のなかを歩くことだったのではないだろうかー少なくとも、感覚や想像力を育むという意味では。

 

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)

 

 

 

 

 

十月の「本読みに与ふる時間」を開催しました。

急激に気温の下がった朝でしたが、読書に集中した時間をすごしました。

 

 

本日、参加者のみなさんが読まれた本です。

 

竹内好美『心が折れそうな人のための言葉の処方箋』(秀和システム

 

・NORA『人生、60歳まではリハーサル』(主婦の友社

 

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)

 

 

私の読んだ本レベッカ・ソルニットの『ウォークス』は歩くことについて書かれたすぐれた書物で、読んでいる間中ぞくぞくそわそわします。カバー表紙の写真は、Charles C. Pierceの写真で、カバーをめくると歌川広重の「東海道五十三次」の編み笠を被って雨の中を歩く人たちの絵が使われていて、とてもセンスを感じます。大分に新しくできた新刊のブックカフェ「Bareishoten」さんで購入しました。

 

 

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ご参加ありがとうございました。みなさま、よい休日を。

 

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オンラインのようす

 

 

 

【開催案内】本読みに与ふる時間 10.17

 

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◆「本読みに与ふる時間 10.17 」
「本読みに与ふる時間」とは各自が日曜日の朝に好きな本を20分間読む、その時間をオンラインで共有するというだけの企画です。


【企画の概要】
・各自が読まれる本は問いません。文芸書でもビジネス書でもお子さんと一緒に絵本を読んでもOKです。基本黙読でお願いします。
・9時開場で、読書時間はだいたい9時15分~35分の20分とします。
・参加費はかかりません。
・zoomを使用します。あらかじめアプリをダウンロードしておいてください。
ご自身がその日に読む本をzoomのチャット欄に書き込んでください。できれば選んだ理由も書き添えてくれると嬉しいです。
・参加者の方が自己紹介など特に話す必要はありません。僕が一方的にしゃべります。話すのが苦手な方歓迎です。
・マスクをしていても構いませんが、ビデオはオンにして顔出しでお願いします。
・基本ミュートにしてください。
・参加には事前の申し込みが必要ですが、ドタキャンはOKです。途中参加途中退出もOKです。
・参加希望者はこのメールに返信ください。開催日の前日に招待メールをお送りします。
・僕の都合で突然中止になるかもしれませんが、その際は事前に連絡いたします。

○企 画:第九回 本読みに与ふる時間
○日 時:10月17日(日)9:00-9:40
ファシリテーター:シミズ
○参加費:なし
○定 員:何名でも可(要事前申し込み。ドタキャンOK)
○備 考:参加申込者には前日に招待メールをお送りします。それにリンクしてあるzoomのURLをクリックして当日入室してください。お申込みは前日まででお願いします。  
○前回の開催報告です→

【開催報告】第六 本読みに与ふる時間 7.18 - 対話と人と読書|哲学カフェ大分

 

 

参加希望者は以下のフォームからお申し込みください。

ws.formzu.net

【開催案内】オン哲!(オンライン哲学カフェ)10.16

 

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10月のオンラインによる哲学カフェの案内です。

参加希望者はホームページよりお申し込み下さい。

 

 

◆「オン哲!10.16(オンライン哲学カフェ) 」  


今回のテーマは「政治的な発言はなぜ嫌われるの?」です。

日本では芸能人が政治的な発言(原発批判や基地問題への言及など)をすると「黙れ」とか「ファンをやめました」といったバッシングを受けることが多く見受けられます。また好きな音楽家や作家が自分の思想信条と相容れない発言をした場合、その後作品を純粋に鑑賞できなくなったりすることもあるかもしれません。有名人でなくても、ビジネスの場などでは政治、宗教、野球の話はするなと新人研修で教えられたりします。なぜ政治的な発言は嫌われるのか。(民主主義の基礎と思われる)感情的にならずに政治の話ができるための土壌はどのようにしたらつくられるのか。問い、考えてみたいと思います。


テーマ:「 政治的な発言はなぜ嫌われるの?」
日 時:10月16日(土)20:00-21:45
○方 法:Zoomを使用します。
ファシリテーター:シミズ
○参加費:300円*paypayかamazonギフト券でお支払いください。
○定 員:約15名程度(要事前申し込み、先着順)
○備 考:開催前日までにお申込みください。

 

ホームページ

dialogue-oita.jimdofree.com

どれみふぁけろけろ

 

 

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2002.10 Seoul 
ソウルにも神田のような古本屋街があった。読めない文字が気持ちよかった

 

 

 

 

 

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である!(私はこの指摘を知って雷に打たれたごとく感じた)。

 

一つの日本語観』中井久夫

 

 

 

 

2021.10.4-10

 

 

月曜日

今日は意識的なオフの日として、隙間時間を作って映画「MINAMATA」を見に街へ出かけた。感想としては、水俣の映画というよりは、ユージン・スミス「入浴する智子と母」撮影秘話といった感じだろうか。素直に感動したと言えない部分がある。水俣がMINAMATAとしてこうして世界から光を浴びることを大いに歓迎したいし、これによって若い方たちが石牟礼道子の著作などに手を伸ばしてもらえるのなら意義深い作品となるだろう。水俣病の入門の入門ということで。文句を言いたいのはハリウッド型勧善懲悪では水俣病問題を描けないということである。そのややこしさや複雑さに向き合わずに水俣病をなんらか「分かった」気になるのはとてもまずいということだ。唯一そのややこしさに近づいたのは、チッソの社長がユージン・スミスにあなた使っているフィルムの原料もこの工場で作られているみたいなことを言う台詞だが、それに対するユージン・スミスのリアクションは特になかった。チッソの社長もチッソであれば、緒方正人氏の言うように、「チッソはわたしであった」のである。でもプロデュースしてくれたジョニー・デップ氏には感謝したい。(肥薩おれんじ鉄道の空撮には感動した)この後に続くとも言える、原一男監督の映画「水俣曼荼羅」には期待したい。

 

 

 

あと見て思ったのが、サルガドのコンセプトって、ユージン・スミスからいただいているのだろうなと。

 

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火曜日

 

昨日見た映画「MINAMATA」がもやる。フィクションであれノンフィクションであれ、ついていい嘘とついてはいけない嘘がある。例えば映画「ラスト・エンペラー」では中国が舞台だけど、溥儀をはじめ皆英語で訳を演じている。これはついていい嘘だと思う。たとえば「MINAMATA」では、最初にユージン・スミスが泊まる家はまるで和モダンのお洒落な邸宅だが、これはついてはいけない嘘に類いする。桑原史成の水俣関連の写真集を見ると、びっくりするような貧しい家々のなかに住まう水俣病患者とその家族が写し出されている。貧困との闘いがあったこと最初に示すチャンスだと思うが、そこは何部屋もある「豪邸」だった。

 

 

 

最近はノンアルコールでよい。酔う気分だけ味わえれば夜も活動ができるし。積極的なノンアルの使用法。

 

 

水曜日

Twitterで誰かが選んだ読書すべき100冊のすべてが自己啓発本になっていて人文系の読書界?に物議を醸しているようだ。私は自己啓発本も文学書も哲学書も読むが、自己啓発本を読書としてカウントするのは違和感がある。たとえば取扱説明書やパンフレットを読んでも、それを読書と言えるのだろうか。それと同列のこととして考えている。文学書や哲学書は「情報」ではないし。

 

 

 

 

ユージン・スミスとアイリーンで思い出したけど、クリストとジャンヌ=クロード、ストローブ=ユイレとかマドリン・ギンズと荒川修作とか、海外では夫婦の連名で作品を発表することがあるけど、日本ではあまり聞かないな。

 

 

 

木曜日

利尻山斜里岳の初冠雪の報。

昨年の10月に北海道を旅したのを想う。

旅の欲求が疼く。

 

 

ノーベル文学賞タンザニア出身のアブドュルラザック・グルナ氏だった。和訳もなく、知らない作家が受賞するというのは、ノーベル文学賞の理想的な在り方かもしれない。光を当てることが大事だと思う。

 

 

 

金曜日

昨日は無性に眠くて22時前には寝て、今朝は5時半頃起床した。朝の時間がとれるのはすばらしい。習慣づけたい。

 

 

寝ている間に、東京の地震サッカー日本代表のサウジ戦敗北とがあったようだ。

 

JFA日本サッカー協会の本部は東京の本郷三丁目の住宅街にあって、以前この周辺で仕事をしていたときになんでこんなところにあるんだろうと思った。本郷は本郷台地といって小高い台地になっていて、冬などは気持ち寒かった。東京は関東平野と呼ばれているけど細かく見れば起伏がたくさんあって、どれも由緒があり魅力がある。

 

 

いつかのナポレオン・ボナパルトの言葉、真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である。

 

 

 

飼っている猫のオカユちゃんの調子が悪い。微妙なのだが、動きがいつもと違って緩慢で覇気がない。いつも以上に甘えてくるので、しばらく抱っこする。猫のごろごろ音は傷の恢復などに有効だと聞く。撫でてやるとごろごろ言う。夜になると調子が戻ってきた。

 

 

 

夜の高橋源一郎氏のラジオは読書会についてだった。冒頭の高橋源一郎の一人語りが好きなのだが、彼が東京拘置所に収監されていた頃の読書体験を語っていた。彼はここで言葉を失ったのだった。

 

 

 

 

土曜日

 

机を片付けていたら乱れた字のメモ書きが出てきて、「ペルト」「1978年」「スンマ」「ゆっくりいそげ」との言葉があった。そのまま検索してみると、アルヴォ・ペルトというエストニア生まれの作曲家の書いた「スンマ」というストリング・オーケストラ作品にたどりつき、YouTubeで早速視聴。好きすぎて購入手続きをする。たぶんラジオで流れてきたのを必死で書き留めたのだろう。

 

 

来週末のカフェフィロさん主催の読書会で『四国遍路』辰濃和男岩波新書が課題図書となっているので読み進めているが、海を隔てた隣県で遠巻きに見ていて「四国遍路」が身近なものに感じられて、体験したくなってくる。日本にはこういう「生まれ直し」や「穢れを落とす」装置がたくさんある。

 

 

 

日曜日

対話勉強会で知り合ったMさんの主催する「哲学対話を楽しむための問いかけるトレーニング」にオンラインで参加。3時間のオンラインは初体験だったが楽しく問いのトレーニングができてあっという間だった。問うことと意見をいうことのチームに分かれて、その役割を交代したワークでは、問うことと意見を言うことを鮮明に分けることのメリットを感じた。通常の哲学対話では、このあたりはごちゃごちゃしているから。

 

 

 

対話の途中で、AさんがBさんの意見に対して「意味が無い」と言った場面があった。言い方の問題もあり、その言葉には角が感じられ、Bさんはなんらかショックを受けたと後で語った。司会の方や参加者のフォロー(言い方に注意すること。こう言い変えたら角がたたないのではないのかという提案)があった。ある発言に対して、意味が無いと感じるときは確かにあるが、それをストレートに言っていいほどの人間関係がお互いに無いときには、言葉を選ぶことが重要であると思うし、哲学対話とは畢竟、そういうことを学ぶ場であるとも思う。対話的態度の涵養。でもこういうことを大事だと思わないひともいるだろう。そういった場合、事前にルールとして組み込んでしまうのが良いのか、今はわからない。

 

 

われわれは、共感させられる訓練を沢山して、理解する訓練をしていないとつぶやかれたツイートを読む。「理解」というものが、哲学と対話をつなぐものであるかもしれないと直観する。相手を理解する訓練は自分を理解する訓練にそのままつながるだろう。

 

 

 

 

 

しきりに誘うものがあった。

 

なにもかもどこかに追いやって四国路を踏みしめたいという思いが年を追って深まってきている。そう思いながらも一方で、まだ機が熟さないというためらいがあり、なかなか踏み切ることができなかった。

 

あれは四十四歳のときだった。初めてお遍路というものをしたことがあり、それ以来ずっと、四国路のあちこちを歩いている自分の足先や杖の響きがこころのどこかに居すわっていた。高知の海の色や愛媛の山の面影がふっと閃いてこころを騒がすこともあった。

 

辰濃和男『四国遍路』(岩波新書