ここ2日は連続して羯諦寺に朝通い、坐って、英語で他の海外の人たちと話し帰る。
坐るごとに上達していく。
坐るに上達もあるのか。
集中の度合いというのか、深まり方、スイッチの入り方。
いつもは窓を開け放ち外を向いていたが、今日の会では人と人で向き合って坐った。
坐るという字にも人が二つ書かれている。
今日は足のしびれはなかった。首から下が消えた、無感覚、無重力になった。
以前は時間が長く感じたときもあったが、今日は終わりの鐘を聞くと、
短い、もっとしたいと思った。
自分のなかに「静けさ」がうまれる。スペースというのか。
真空のもの。意味の外、私の外、不安や悩み、ストレス、心配は全部、
私に紐付いているから、私が消えればそれらも消えていく。
ここちよい。なんにもないということはきもちがいい。
羯諦寺のようどう住職は気さくな方だが、特に教えることは最低限度で、
あとはおのおのの探究に任されているのがいい。
教え導くことの有用性とマイナスを日々考える。
坐禅を継続していく人はほとんどいないとのこと。
坐るということが、「私」の芯に食い込まないと早起きも覚束ないだろう。
坐るよろこび、書のよろこびをこの年になって知ってわたしはしあわせだ。
帰りは近所の大山積神社(大山祇神社)へ。拝殿の後ろにご神体の巨石があった。
日出町が一望できる絶景を独り占めして、しばしたたずんだ。
いきていることの至上。